日本の歌をベラルーシ語で〜「月と日」プロジェクト

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□2004年
「さくら」
インタビュー
□2005年
5月
9月まで
9月発売前
□CD完成、コンサート
はじめに
・コンサートレポート(1) (2)
(3) (4)
□「月と日」
・スタッフ紹介
(1) (2)
ジャケットデザイン
収録曲と歌詞カード
トーダル君について
WZ−オルキエストラについて
CD解説日本語訳
□収録詩訳
1.「十字路」
2.「天使たち」
3.「秩序」
4.「正方形」
5.「亜麻」
6.「祈りの試み」
7.「夕べ」
8.「葉」
9.「私たちのビリニュス」
10.「一つの祖国」
□収録曲解説
1.「さくら」
2.「朧月夜」
3.「茶摘み」
4.「浜辺の歌」
5.「われは海の子」
6.「紅葉」
7.「村祭」
8.「十五夜お月さん」
9.「冬の夜」
10.「故郷」
思い出のエピソード
 


■ 「月と日」収録曲解説

8.「十五夜お月さん」

 収録曲の中で一番悲しい歌です。この歌は日本のオリジナル曲が持つイメージをそのまま編曲されました。まあ、この歌詞で軽快なアレンジ、というのは無理ですね。
 トーダル君の熱唱、バヤンのむせび泣くような音とメロディーが感動的です。コンサート会場でも大きな拍手が起きた曲の一つです。短い歌ながら、聴く人に与える印象は非常に強いです。
 
 十五夜といえば、中秋の名月、つまり9月を連想する人が多いですが、曲の持つイメージから冬の歌として8曲目に収録しました。この選択でよかったと思っています。
 歌詞の内容ですが、原詩はまさに「一家離散」の歌。
 1番で「婆やはお暇とりました」 つまり家が人を雇えるだけの経済力がなくなったということです。でもまあ、他人である婆やがいなくなってもまだいいか、と思っているところへ、2番では「妹は田舎へもられてゆきました」
 ここでいう田舎というのは母親の実家で、貧乏になってしまったから育てられなくなって幼い妹が、母方の親戚に引き取られたのだな、と私は解釈し、そのようにロシア語に訳しました。
 そして、3番「かかさんに、も一度私は逢いたいな」・・・何だか外堀から始まりどんどん内堀も埋められていくような、悲壮度が増していっています。どうしてお母さんに会えないのか? 死んでしまったのか? どこかすごく遠いところへ行ってしまったのか? 一体、野口雨情の身の上に何が起こったのか? 野口家に何が?!
 ・・・と語られる言葉が少ないのですが、いろいろなことを想像させる歌詞です。

 実際には野口雨情が子どもだったときに、父親の事業が傾いたとか、母親が病気で死んでしまった、といったことはなかったそうです。何でも野口雨情自身が離婚してしまったので、そのときの寂しさを詩にしたらしいのですが、歌詞の中に出てくる「私」は成人した、つまり自立した大人であるような感じはしません。一人ではまだやっていけない年齢の少年のようです。
 胸のうちを話しかけるのも、十五夜お月さんだけなのか? と思わせるほどの孤独感です。
 感情を直接表す言葉は使っていないうえ、とても短い詩なのに本当にいろいろなことを想像させる、日本の詩の中でも傑作だと思います。子どもの孤独感、丸く明るい満月、でもどこか寂しい月光の色、それが浮かぶは真っ暗な夜闇・・・。

 さて、この歌詞をカモツキーさんはどのように翻訳したのでしょうか。

・・・・・・・・・

「十五夜お月さん」(満月)

十五夜お月さん、聞いておくれ、私の悲しみを
私の心の上には冬
ああ、お母さんに、ああ、お母さんに会えることはもうない

十五夜お月さん、聞いておくれ、私の喜びを
春になるまで、生きることができるよう
助けてくれる人が他人の中にもいる

十五夜お月さん、聞いておくれ、私の願いを
夢の中だけでいいから
やさしいお母さんがどうか、そばにいてくれますように

・・・・・・・・

 十五夜お月さんのことはベラルーシ人に分かりやすく満月と訳しました。原詩に出てくる「ご機嫌さん」といった挨拶の言葉は一切抜きで、いきなり「満月よ、聞いておくれ」と歌っています。
 そして、1番の歌詞の内容が原詩の3番の歌詞を受けて「お母さんに会えない」とまず直接的な状況の説明から始まります。これを聴いたベラルーシ人は「それってどういうこと? お母さんが死んじゃったのか?」と悲しみの感情が突き上げてきます。

 そしてベラルーシ語訳では「婆や」や「妹」は削除。全く出てこず、2番の歌詞で「私」自身が「田舎にもられてゆきました」になっています。
 じわじわと核心に迫っていく原詩と違って、ベラルーシ語訳ではストレートに状況の説明がなされます。そして1番が大きな悲しみを、そして2番で小さいながらも喜びを歌い、少し救われるような感じです。
 そして3番では「お母さんに会いたい」と悲痛な(かなうことのない)願いが吐露されます。
 2番でやや救われた感じがしていたのに、また悲しみに突き落とされます。
 感情の起伏が上下するようで、日本の原詩の持っていき方と異なります。
 2番のわずかな喜びという感情が、それを挟んでいる1番と3番の悲しみを浮き立たせる効果をカモツキーさんは狙ったのかもしれません。

 余計な登場人物をなくしたのも、「私」と「お母さん」の二人だけのもっと密な関係を際立たせているようです。また原詩のほうは経済的な窮状も示唆していますが、ベラルーシ語訳のほうは肉親と別れて他人の中で暮らすことになった精神的な苦しみだけをテーマに絞っています。
 また冬の歌、としてこの歌を採用したのを意識したのか、1番に冬、2番に春という季節を表す言葉を入れています。
 原詩のほうが好きな人も、ベラルーシ語版が好きな人もいると思います。

 ちなみに・・・コンサートでこの歌が歌われた直後、トーダル君のお母さんが小さい花束を持ってきて、ステージに上がり、トーダルくんに渡したのが印象的でした。お母さんに会いたい、という歌ですから・・・。トーダル君はちょっと照れていましたけど。

 ところで、この歌にはこんなエピソードがあります。CDを家族で聴いていたところ、「村祭」で飛んだり跳ねたりして踊っていた私の子どもが、「十五夜お月さん」が始まったとたん、だんだんと踊るのをやめていきました。そして、とうとう立ち止まったのですが、急にしくしく泣き出したのです。
 子どもはまだ3歳で、日本語ももちろん上手に話せませんし、もちろんベラルーシ語は全く分からないのです。ですからこのCDを聴いても歌詞の意味は分からないはずなのに、まるで「十五夜月さん」の歌詞が全部分かったかのように、私にしがみついて泣いたのです。そして、この歌が終わるまで、泣き止みませんでした。この話をトーダル君たちに話したところ、大変驚いて
「日本人の血が流れているからじゃないかな? 言葉は分からなくても、もともと日本の歌だから。」
と言っていましたが、私はそうでなくて、曲の調べがこの歌詞の持つ世界をそのまま反映していたからではないか、と思います。歌詞の意味が分からない幼い子どもでも、曲で感じることができたからではないでしょうか。原曲の作曲家、本居長世の力量でしょう。またこの歌が持つ世界を壊さず、なおかつベラルーシ風に編曲したトーダル君もすごいと思います。

・・・・・・・・

「十五夜お月さん」 作詞:野口雨情 作曲:本居長世

1 十五夜お月さん 御機嫌(ごきげん)さん
  婆(ばあ)やは お暇(いとま) とりました

2 十五夜お月さん 妹(いもうと)は
  田舎(いなか)へ貰(も)られて ゆきました

3 十五夜お月さん かかさんに
  も一度わたしは 逢(あ)いたいな

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 トーダル&WZ-オルキエストラについて、詳しくは以下のリンク先からご覧ください
・「Tのベラルーシ音楽コラム」  バラード 季節の香り
(ベラルーシの部屋内にある紹介ページにあるトーダル&WZ-オルキエストラのCD紹介ページ)
・トーダル君の公式サイト

辰巳雅子
Date:2005/10/28