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■ 「月と日」「月と日」収録曲解説
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4.「浜辺の歌」
収録曲のうち、元の曲から最も変身した歌です。
「浜辺の歌」といえば、大きな波のうねりを思わせる、ゆったりした曲調を日本人なら誰でも思い起こします。
しかし、トーダル君は浜辺の歌をジャズに編曲してしまいました。しかもテンポが速く、ノリのいい歌です。
初めてこの曲を聴いたとき、正直言って一番ショックを感じました。私が知っている「浜辺の歌」に全然聞こえなかったからです。日本語で一緒に歌えません。しかし、何回か聞いているうちに「この浜辺の歌もいいかも・・・。」と思えてきました。
この歌こそが、日本人が持っている日本の歌の固定観念を最も大きく覆したからです。私はトーダル君をベラルーシ人の代表として、日本の歌を変えてもらいたかったのですが、ここまで変わってしまうとは予想できませんでした。
ある意味、こり固まった私の脳みそを最もよくほぐしてくれたのが、この歌です。
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「浜辺の歌」(「浜辺にて」)
浜辺をぶらぶらしながら、波音を聞いていたとき
波はまるで古い時間となって、僕の前にわき上がった
見知った道を家へ帰りながら聞く風の音は
忘れていた友の声
雲は朝早く、明るい太陽を僕に運んでくれる
そして時間は白い希望で明るくなり、より優しくなる
夕べは再び憂いがあることを教える
長い間、考え続けて得られた結論を
家まで持って帰ろう
浜辺をぶらぶら歩くとき、自分が静寂の中にいると強く感じる
うつろう沈黙の時間が、僕の心を呼んでいる
明日がどんな日になるのか...今は考えない
こんな気持ちを思い出した。今はもっとここにいたい
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「浜辺の歌」は寄せて返す波の音に人生や時の流れを想ったりする、スケールの広い詩です。
私は原詩の3番の歌詞を読んだとき、てっきり作詞者の林古渓が病気になり、療養のため海辺の町に滞在していて、海岸を散歩していたときに作った詩だと思い込んでいました。しかし、実際には幼少に住んでいたところの近くにある海岸を思い出して作曲したそうです。
でも、そのわりにはずいぶん大人っぽい歌詞だと思います。
さてトーダル君は歌詞を読んで、浜辺をぶらぶらのん気に散歩する様子を思い浮かべたらしく、軽快なアレンジにしています。
これは私にも責任があるのです。下記の「浜辺の歌」の原詩をお読みください。
1番と2番の歌詞では確かにお散歩しているのですが、3番の歌詞には「病みし我は すでにいえて」と、作者の状況と思われる説明がされています。
しかし、この後に続く「浜辺の真砂(まさご)まなごいまは」という部分。ロシア語訳するときに、「真砂は何となく分かるけど、『まなごいまは』って何?」と私は大変悩みました。後から分かったのですが、まなごとは「愛しい子」のことだそうです。それにしても、脈絡のない歌詞に思えます。
何でも本来の詩は4番まであったそうで、雑誌に掲載されたとき、編集者のミスで、3番と4番の歌詞の内容が混ざってしまったのだそうです。林古渓は怒って、この3番の歌詞がずっと嫌いだったそうで、だんだん3番の歌詞は歌われなくなっていきました。
確かに3番の歌詞は日本語で何回読んでもよく分かりません。林古渓も嫌いだったんだし、今はあまり歌われていないからということで、私はこの3番の歌詞をロシア語に翻訳しませんでした。
そして1番と2番の歌詞だけ翻訳して、トーダル君たちに渡したのです。
確かに原詩の1番と2番だけ読めば、「人が散歩しながら昔のことを懐かしんでいる」だけの歌に思えます。
さらに原詩には雲や貝、月や星といったロマンチックな、そして形のあるものを連想される言葉が散らされいます。しかし、カモツキーさんはそういった具象的な言葉を削ってしまいました。そしてもっと象徴的な言葉を多用し、人生について思いをめぐらせる歌詞にしています。原詩の1番と2番の原詩が意味するところを、全て混ぜて、さらに自分なりの時間感覚や、郷愁の気持ち、人生観などを加味して、3番まで歌詞を作っています。
歌詞だけ読むと哲学的ですが、編曲が明るいので、
「過去を振り返ったり、人生についていろいろ難しく考えちゃうこともあるけど、ま、明るく前向きにやっていこうよ。」
と歌っているようにも聞こえます。
選曲時、「茶摘み」は初夏の歌、「浜辺の歌」と「われは海の子」は夏の歌、ということで選びました。
夏の歌2曲には両方とも海が出てきます。しかし、ベラルーシには海がありません。
日本人には馴染みがあり、生活に溶け込んでいる海ですが、そのような感覚がベラルーシ人にはありません。海の代わりに湖で泳いだり、魚釣りをしたりすることはありますが、海を見ようと思ったら、普通1日列車に乗って黒海か、バルト海までわざわざ行かなくてはいけません。
そして、海といえば海水浴などをして楽しく遊ぶところです。生活の糧をそこから得ようとする場所ではありません。別天地なのです。日常生活とはかけ離れた世界、馴染みがないといえば、そうであり、また物珍しい世界でもあります。
ベラルーシ語版「浜辺の歌」が、浮世離れしたような歌詞であり、またわくわくするような楽しげな編曲がされているのは、このようなベラルーシ人の海に対する感覚が反映されたからなのかもしれません。
歌詞の内容と曲調のイメージがぴったりと一致しておらず、これをよし、と取るか組み合わせの妙と取るかは、意見の分かれるところでしょう。
また気に入る人と気に入らない人とが、はっきり分かれる作品であるとも思います。
(作曲者の成田為三が生きていたら、聞いてもらいたかったです。すごく驚きそうですね。)
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「浜辺の歌」 作詞:林古渓 作曲:成田為三
1 あした浜辺を さまよえば
昔のことぞ しのばるる
風の音よ 雲のさまよ
寄する波も 貝の色も
2 ゆうべ浜辺を もとおれば
昔の人ぞ しのばるる
寄する波よ 返す波よ
月の色も 星のかげも
3 疾風(はやて)たちまち 波を吹き
赤裳(あかも)のすそぞ ぬれひじし
病みし我は すでにいえて
浜辺の真砂(まさご)まなごいまは
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トーダル&WZ-オルキエストラについて、詳しくは以下のリンク先からご覧ください
・「Tのベラルーシ音楽コラム」 バラード 季節の香り
(ベラルーシの部屋内にある紹介ページにあるトーダル&WZ-オルキエストラのCD紹介ページ)
・トーダル君の公式サイト
辰巳雅子
Date:2005/10/26
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