※写真および文章はベラルーシの部屋ブログの記事を一部加工し、転載しました。
11月13日にビタペクト2と「チェルノブイリ:放射能と栄養」のコピー無料配布運動として、SOS子ども村での第82回目の配布を実施いたしましたので、ご報告いたします。
今回はビタペクト2を10個、そして「放射能と栄養」のコピーを20部渡しました。
これで今までに配布したビタペクト2は合計1545個、「チェルノブイリ:放射能と栄養」のコピーは1210部となりました。
今回で通算92目のビタペクト2の配布となりました。
のべ人数になりますが、現時点で1545人分のビタペクト2、そして1210家族分の「放射能と栄養」のコピーを配布したことになります。
ビタペクト2の成分や、これまでの配布運動について詳しくはこちらからご覧ください。
「チェルノブイリ:放射能と栄養」について詳しくはこちらをご覧ください。
SOS子ども村についてはこちらをご覧ください。
(ビタペクト2を開発、製造、販売しているベルラド研究所のサイトはこちらです。)
今回は4家族が保養のためSOS子ども村に滞在しており、お話を伺いました。
(家族A)
バブルイスク市から来たおばあちゃんと3人のお孫さん。この家族はSOS子ども村滞在は4回目です。
・2005年の1回目の滞在の様子はチロ基金の活動「ビタペクト2&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第30回の(家族B)をご覧下さい。
・2006年の2回目の滞在の様子はチロ基金の活動「ビタペクト2&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第44回」の(家族A)をご覧下さい。
・2007年の3回目の滞在の様子はチロ基金の活動「ビタペクト2&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第62回」の(家族A)をご覧下さい。
この家族には1個のビタペクト2を渡しました。
体内放射能値の測定結果については以下のように推移しています。 (太字はビタペクト配布です)
2005年 | 2006年 | 2007年 | 2008年 | ||
おばあちゃん | 14ベクレル | 8ベクレル | 13ベクレル | 10ベクレル | ビタペクト2配布なし |
8歳の孫 (男の子) |
32ベクレル | 入院中のため測定せず | 25ベクレル | 13ベクレル | 2005年、2007年ビタペクト2配布 |
6歳の孫 (女の子) |
滞在せず | 18ベクレル | 24ベクレル | 18ベクレル | 2006、2007、2008年ビタペクト2配布 |
2歳の孫 (女の子) |
生まれていません | 生まれていません | 0ベクレル | 15ベクレル | 3歳以下のため、配布なし |
8歳の孫の男の子は2005年の滞在のときは元気だったのに、2006年の滞在直前に悪性腫瘍が見つかり、緊急入院。重篤状態が続いていましたが、持ちこたえてその後退院し、2007年は検査を受けるためSOS子ども村に滞在していました。
今年も詳しい検査のため、SOS子ども村に滞在していますが、C型肝炎を併発していることが分かったそうです。心配な状況が続いています。しかし、SOS子ども村に今年もおばあちゃんといっしょに来られてよかったですね。・・・と思ったら、おばあちゃんがこんな話をしました。
「今年も孫のため、検査に連れて行きたいので休みをください。」
と職場で頼んだら、いきなり
「契約期間が終わった。」
と言われ、解雇されてしまったそうです。おばあちゃんは現在52歳。この年齢で無職になったら再就職は難しいです。(職種にもよりますが・・・)
また、ベラルーシでは女性は55歳で定年退職しますが、定年時に就いていた職業の給料を元にして、年金の額が決まります。もし無職だったら、最低額の年金しかもらえません。
「保養が終わって家に帰ったら、就職先を探す。孫のためにお金も必要だし・・・。」
と話していました。
どうして、こんなに冷たいことをされなければいけないのでしょうか? 仕事を休んで遊びに行くわけではなく、孫の病気の検査のために、地方から首都の大きい病院に連れて行くために休暇の申請をしたのに・・・。何だか腹が立ってきました。
しかし、もっと大変な状況の家族もいたのです。
(家族B)
こちらバブルイスク市から来た母親と3人の息子さん。
この家族はSOS子ども村滞在は2回目です。前回の滞在は2005年2月です。
2005年の滞在の様子はチロ基金の活動「ビタペクト2&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第28回」の(家族B)をご覧ください。
この家族には2個のビタペクト2を渡しました。この家族の放射能値の推移はこのとおりです。(2005年→2008年の順に表記しています。)
2005年 | 2008年 | ||
母親 | 5ベクレル | 8ベクレル | ビタペクト2配布なし |
長男(13歳) | 11ベクレル | 14ベクレル | ビタペクト2配布なし |
次男(10歳) | 20ベクレル | 21ベクレル | 2005年、2008年配布 |
三男(10歳) | 5ベクレル | 26ベクレル | 2008年配布 |
(太字がビタペクト2配布です)
次男と三男は双子です。長男は障害者です。(癲癇患者。知的障害もあります。)
2005年の滞在でも、お母さんは暗くて、元気がありませんでした。今回はもっと落ち込んでいました。話を聞いてみると、3人の子どもを残して、父親が愛人の元へ行ってしまい、その後離婚。そしてこの父親ですが、現在服役中だそうです。何をしたのか知りませんが、当然子どもの養育費を払えるわけがありません。
住む場所を確保するため、ローンを組んでマンションをお母さんは買いましたが、毎月ローンを支払わないといけないので、当然収入が減ってしまいました。
障害者の長男のために薬を買わないといけないのですが、なかなかその薬代を出すことができず、
「家ではじゃがいもしか食べていない。」
と双子が話していました。でも双子は学校で給食を食べているからまだ恵まれています。
長男のほうは障害児を受け入れられる条件にないから、と学校の入学を断られました。でもベラルーシにも義務教育を受ける権利があるので、教師が家庭訪問をしています。
2年前は教師が通ってきて、文字の読み書きを教えてくれたそうです。しかし昨年は教師が家に来ても、何もせずにすぐ帰ってしまったそうです。
私だったら、校長先生に苦情の一つも言うところですが、お母さんはこういう話をしながら、ずっとすすり泣いていて、
「どうせ言っても何も変わらない。」
と諦め切っていました。
今は長男は、母は仕事、兄弟は学校へ行っている昼間、ずっと1人で家におり、テレビを見ているそうです。
お母さんに「床掃除をしなさい。」と言われると、この長男はゆっくりですが、きれいに隅々まで雑巾がけをするそうで、私は専門家ではありませんが、この子の話していることを聞く限りでは、そんなに知的能力が低いようには感じませんでした。
訓練さえすれば、単純作業でも就職できる可能性もあると思いました。そのあたりの訓練を学校側がちゃんとすればいいのに、放置されています。
バブルイスク市には障害児協会があり、それに登録していますが、だからと言って、薬がもらえる、古着がもらえる、といった得をするようなことが全くないそうです。
幸いこの協会を通じて、SOS子ども村に滞在でき、子どもたちもキーウイとかの果物を食べて喜んでいる、ということが、入会してよかった、とも思える唯一の点です。
しかし、SOS子ども村に来たとき、11月なのに子どもたちは夏用のサンダルしか履いていませんでした。
「これしか靴がない。」
と言うのを聞いて、一緒に保養にきていた(家族D)のお母さんが長男の古い靴を取りに行って、あげたそうです。
金銭的に援助してくれるような祖父母や親戚もおらず、障害児協会も援助物資をくれない、3人子どもがいるのだから、障害児じゃなくて多子家庭協会に登録したほうがいいのでは? と言ったら、(家族A)のおばあちゃんが
「ミンスクの多子家庭協会だと、古着や哺乳瓶などの救援物資がもらえるけど、バブルイスクの多子家庭協会では何ももらえない。それどころか、多子家庭のための育児助成金ももらえず、『他の都市ならもらえても、バブルイスクはバブルイスクで、そんな福祉策はない。』」
と言われるそうです。多子家庭の助成金については、このSOS子ども村でいろんな地域の話を聞きましたが、町によって額がバラバラで、こんな不平等でいいのか? と思っていましたが、多子家庭でしかも投薬が必要な障害児がいるのに、全く援助が得られない、なんてひどすぎると思いました。
バブルイスクの行政は、雪が積もっても子どもにサンダルを履けって言うんでしょうか?
以前はこの双子のうちの弟がアメリカへ保養滞在して、アデノイドの治療を受けたことがありますが、その後は誰も外国への保養も全く行っていません。
お母さんはモギリョフに障害児を長期入院させて治療する病院があることを知り、長男を入院させました。その後面会に行くと、同じような子どもたちがまとめて、檻のような病室に入れられていたそうです。
長男は体のあちこちに引っかき傷や、青あざを作っていました。
病院でどういう治療をしているんですか? と尋ねると
「あなたの子どもの病気は一生治らない。私たちは治療はしません。逃げないか見張っているだけです。」
という返事だったので、怒ってその日のうちに退院させ、家に連れて帰ったそうです。
ひどい・・・子どもの人権とか、そういったことは考えていないのでしょうか?
(しかし、このお母さんは優しい、まともなお母さんだから、自分の子どもをすぐ退院させたけど、親によっては体のいい厄介払い、ということで障害児をこんな病院にずっと入院させているケースもあるんじゃないか・・・と思えてきました。気分が重いです。)
この泣いているお母さんを見ていると、この調子で誰からの何も援助が受けられないと、お母さん自身がうつ病になるんじゃないかと、心配になってきました。
チロ基金からビタペクト2をあげて、「食育が大事です。海草を食べましょう。」という話をするのもいいことですが、この一家にとっては、放射能や海草どころの問題ではありません。
お母さんはそれでも「ビタペクト2、ありがとうございます。」と感謝していましたが、もっと何か別の援助(食品や靴、薬など)ができないものか・・・と考え込んでしまいました。
(家族C)
モズィリ市から来た家族。お母さんと2人の子ども、姪で、2個のビタペクト2を渡しました。
それぞれの体内放射能値の結果はこのとおりです。○印のついた子どもにビタペクト2を渡しました。
母親 18ベクレル
長女 3歳 21ベクレル ○
次女 1歳 8ベクレル
姪 10歳 19ベクレル ○
このお母さんは離婚訴訟中です。こんな小さい子ども二人を残して、父親が家を出て行ってしまいました。
お母さんは子どもが小さいので仕事をすることができず、収入のない困窮家庭として認められ、生活保護を受けています。しかし月に8000円程度の手当てしかもらえないそうで、これでは生活できません。お母さんの両親が食品を買ってくれたりしているそうです。
SOS子ども村に保養中は、食費が支給されているので、3週間の滞在でも、その分食費が浮いて、大変助かる、と話していました。
家はありますが、名義が夫婦なので、離婚すると夫が半分の面積の所有する権利を言い出して、家の中の半分の部屋しか使えなくなったりする可能性があるそうです。
でも、子どもは夫の子どもなんだから、家を丸ごと住めるようにしてほしい、とお母さんは訴えているそうです。
父親には養育費をちゃんと払ってほしいですよねえ。どうして、子どもを忘れてしまったようにできるのでしょう?
ベラルーシの法律では、別れた夫が公務員で、子どもが母親に引き取られた場合、父親の給料から養育費が自動的に天引きされます。
でもそうでない職業の場合もあるし、夫が無職だったり刑務所に入れられていたりしていた場合、養育費が支払われません。
こういうことになってしまうと、本当に生活が大変苦しくなってしまいます。
引率してきた姪っこの両親も全く同じ状況だそうです。(こんな孫を3人も抱えたおじいちゃん、おばあちゃんも大変です・・・。)
お母さんは
「家にいたときは、精神的にも辛く感じていましたが、SOS子ども村に来て、他の病気や障害児を抱えたお母さんたちの話を聞いていて、本当にいろいろな人生があると感じました。私の話も聞いてもらえて、精神的にも助けられています。ここへ来て本当によかった。」
と話していました。
ところで、SOS子ども村での保養滞在は、普通2家族か3家族が同時に滞在しますが、どうして今回は4家族? ベッドは足りているのかしら? と思っていたら、モズィリの母子家庭協会が日にちを間違えて、このお母さんに伝えてしまい、知らずに準備して、SOS子ども村へ来てしまったそうです。
「どうしてこんなに早く来たの?」
とSOS子ども村の職員さんはびっくりしたのですが、
「来てしまったのなら仕方ないですね。このまま保養滞在してください。」
と、小さい子どもを一つのベッドに二人寝かせたりして対応したそうです。
全部で20人が一つ屋根の下で生活しているのですが、トラブルはなく、みんな仲良くしているそうです。
狭くないのかなあ、と最初は心配していましたが、お母さんのお話を聞いているうちに、日にちを間違ったのも、何か縁や運命の導きだったのではないかなあ、と思えてきました。
(家族D)
ミンスクから来た家族。お母さんと6人の子どもたちです。この家族には5個のビタペクト2を渡しました。
この家族は家庭タイプ孤児院の一家です。ミンスクにある「子どもの町」から来ていました。「子どもの町」という制度について詳しくはチロ基金の活動「ビタペクト2&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第80回」でご紹介しています。
それぞれの体内放射能値の測定結果はこのとおりです。○印のついた子どもにビタペクト2を渡しました。
母親 23ベクレル
女子 13歳 21ベクレル ○
男子 11歳 16ベクレル
女子 9歳 19ベクレル ○
女子 7歳 30ベクレル ○
女子 5歳 31ベクレル ○
男子 4歳 42ベクレル ○
このうち5歳と7歳の女の子2人は実の姉妹です。
お母さんには実子がいますが、すでに成人して独立しています。3年前に子どもの町に来て里親になることにしました。すると人手不足だったのか、いきなり12人の里子と暮らすよう頼まれたそうです。
その結果、この3年間、食料品と衣類の買い物以外、外出できなかった、という子育て生活を送ったそうです。しかし、里子も何人かは18歳以上に成長してそれぞれ自立していき、今は6人が残っているそうです。
こんなに懇親的に子どもたちの世話をしているのに、小さい子どもから「お母さん」と呼ばれるのはいやだそうで、「おばさん」と呼ぶように教えているそうです。
その里子たちの本当の両親は、アルコール中毒、麻薬中毒で育児は不可能で、孤児院に収容されたり、あるいは生後すぐ親権放棄された子どもたちばかりだそうです。
4歳の男の子は体重が10キロしかなく、2歳児並の体格です。生まれたときすでに体重が少なかったのですが、その後、子どもの町に引き取られるまでの間、まともな食事をしてなかったそうです。
9歳と5歳の女の子は弱視。(親がアルコール中毒だと弱視の子どもが生まれることが多いです。それだけが原因ではもちろんありませんが。)
こういう子どもたちに出会うたびに、かわいそう、という気持ちと、でもいい養母に恵まれて、運がよかったなあ、という気持ちの二つが心に起こります。
もうちょっとしっかりした責任感ある「生みの親」が増えてほしい、とも思うんですが。
下がる一方だったベラルーシの出生率が最近上がっています。それはそれでとても喜ばしいことですが、生まれる子どもの数が増えても、育児放棄されてしまう子どもが増えたら悲しいなあ、と思います。
今回も子ども達に折り紙や日本人の竹細工職人の方に寄贈してもらった竹で作られた知恵の輪、絵葉書を子どもたちにプレゼントしました。
絵葉書は室生寺の絵葉書で、ベラルーシ人の小さい子どもが古いお寺に興味なんか持つんだろうか、と思っていましたが、実際には
「これは何? 何の写真? 何の建物? どんな意味があるの?」
と質問攻めにあいました。とても賢い子どもたちばかりに見えましたよ。
知恵の輪も「こんな難しいの、面倒くさい。」と敬遠されるかと思っていたら、全く正反対の反応でした。
最後になりましたが、ビタペクト2の購入費、そして「放射能と栄養」をコピーするために必要な経費を寄付してくださった方々、折り紙など子どもたちへのプレゼントを寄贈してくださった方、手作りの竹細工を寄贈してくださった方、また日本ユーラシア協会大阪府連主催のバザーなどでSOS子ども村への交通費を捻出してくださった多くの日本人の皆様に、この場を借りて深くお礼申し上げます。
多くの方々に支えられて、この活動が続いています。ベラルーシの子どもたちもお母さんたちもSOS子ども村の職員の方々も皆様に大変感謝しております。本当にありがとうございました。