2003年「ビタペクト2」無料支給運動

2003年活動記録
*SOS子ども村*
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ビタペクト2について
成分
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ビタペクト2&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村

第10回

 

11月26日にビタペクト2と「放射能と栄養」のコピー無料配布運動として、SOS子ども村での第10回目の配布を実施しましたので、ご報告いたします。
 今回はビタペクト2を6個、「放射能と栄養」のコピーを12部を渡しました。
 これで今まで配布したビタペクト2は合計402個、「放射能と栄養」のコピーは372部となりました。
 (今回から通算していくつ配布したことになるのか、明記することにしました。のべ人数、単純計算ですが、402人分のビタペクト2、そして372家族分の「放射能と栄養」のコピーを配布したことになります。)

 さて、今回も二人のお母さんにお話をうかがいました。
 2家族ともゴメリ州ペトリコフ地区にある村から来ていました。まず最初の家族ですが、スニャジン村から来たお母さんと5人の子供たちです。ベルラド研究所で体内放射能値を調べたところ、お母さんが18ベクレル、5人の子供たちのうち3人が15ベクレル、16ベクレル、18ベクレル、とあまりよくない数値でしたので、ビタペクト2を渡しました。
 この一家はみんな恥ずかしがりなのか、あまりしゃべってくれなかったのですが、私としては、言いたくないことを無理に聞くのはよくないので、いつも「話したいことがあれば話してください。」
といった尋ね方をしています。子どもの健康状態はお母さんによると「これといって問題はありません。」ということでした。

 一方、もう一人のお母さんは、二人分話をしてくれました。(^^;)
 この家族はメヘドビッチ村から来ており、4人の子どもがいます。お母さんが20ベクレル、15歳の女の子(三女)が17ベクレルでしたので、ビタペクト2を渡しておきました。
 お母さんのお話によると、長女と次女は双子(17歳)なのですが、一人の子の背骨が数年前から少しずつ曲がり出し、心配している、ということでした。次女は元気なのですが、三女は心臓が弱く、乗り物酔いがひどい、ということでした。末っ子の男の子は健康なようすでした。

 このお母さんは今はペトリコフ地区に住んでいますが、元はホイニキ地区の出身で、故郷の村はチェルノブイリ原発から17キロ、という場所にあります。
 事故当時、学生だったお母さんはペトリコフ市の学校に通っており、また学生結婚をして、ちょうど双子の長女と次女を妊娠中でした。
 また当時親戚のおじさんがチェルノブイリ原発で働いており(3年前に病死。)原発事故が起きたとき、警察から通達が来て
「3日分の食料や着替えを持って、親戚の家などに避難するように。」
と言われたそうです。しかし、チェルノブイリ原発に近い実家が心配で、同じ村出身の学生仲間7人と徒歩で実家のある村へ向かいました。途中チェルノブイリ原発から30キロのところにある森の中で野宿していると、夜雨が降ってすごく寒く、恐ろしいやら心細いやらで、大変つらい思いをしながら、実家を目指したそうです。
 家に帰り着いて見ると、同じように避難命令が出て、実家の家族は家にいませんでした。しかし、とりあえず家の中に入って、アルバムなど大事な物を持ち出したそうです。
 
 仕方なくペトリコフ市に戻ったのですが、妊娠中であったため、病院に一ヶ月ほど検査入院しました。
 そのとき病院側から
「これを飲めば、体から放射能が排出されて、健康な赤ちゃんが生まれる。」
と少量のウオッカに褐色の大きな錠剤(何の薬なのかは不明)を入れて溶かしたものに、ヨードを1滴入れた物を毎日飲んだそうです。

 退院後、再び実家へ家族を探しに行ったところ、村は立ち入り禁止地区になってしまっていましたが、幸いそこでパトロールしていた警察官が、知り合いだったため、中に入ることができました。家に着くとそこにはお母さんがいました。お母さんも避難していたのですが、
「もう歳を取って、放射能なんか怖くない。それより自分が生まれ育った村から離れたくない。」
と考えて、無断で帰宅していました。村にはそのようなお年寄りが15人ほど戻ってきていました。今でもそのお母さんはその村に住んでいます。
 事故後、その村で飼われていた牛や豚などの家畜は有無を言わさず、どこかへ持っていかれてしまい、お母さんは大変苦労をしたそうですが、その家畜は一体どこへ?
 「全部挽き肉に加工されて、放射能汚染されていない肉と混ぜられて、ミンスクその他の都市で売られた。」
・・・そうです。

 話を戻すとお母さんはその後ペトリコフ市に戻り、双子を出産しました。そして旦那さんの実家のあるペトリコフ地区にある村で今暮らしています。
 事故直後は村から何か電報を打つと白紙で届いたり、警察に呼び出されたりしたそうです。緘口令が引かれていた,といってもいいでしょう。

 このお母さんは事故から約1年たった87年ごろ体内の放射能値を測定しています。そのときの結果は170ベクレルでした。
 でもそのときは「ベクレル」と言われても何だかピンとこないし、みんなそんな値だったので、あまり気にならなかったそうです。
 今回測定したら20ベクレルだったので
「もうこんなに減った。もうあれから何年もたったからねえ。ペトリコフ地区でとれるベリーはもう汚染されてないって調査の結果が出ているのよ。」
とうれしそうに話していました。

 さて、実家の村は今でも立入禁止になっていますが、墓参りのため村に入るのは許可されています。94年にこのお母さんが墓参りのため、実家にやってくると、偶然日本人の救援団体が村に来ていたそうです。
 そしてたくさんビタミン剤をもらい、また「放射能と栄養」とよく似た内容のパンフレットをもらったそうです。
 それで日本人にとても感謝していました。

 またお母さんはチェルノブイリ原発事故が起きる前、原発のすぐそばにあるアパートへの引越しが決まっていたそうです。引越ししてから事故が起こったのではなくて、本当によかったです。そのアパートは今は住む人もなく、放棄された状態らしいです。
 またチェルノブイリ原発のすぐそばにとてもきれいな教会がある、という話をしてくれました。今その教会はどうなっているのでしょうか?

 さて、画像はあまりうまく撮れませんでしたが、みんなで竹とんぼで遊んでいるところです。


 ベラルーシの子ども達に大人気の竹とんぼです。
 この他、折り紙の作り方のコピーや、折り紙用の紙もプレゼントしました。

 ベラルーシは緯度が高いのともうすぐ冬至が近いのとで、午後5時でもう真っ暗に
なってしまい、室内で竹とんぼを飛ばして遊びました。でも子どもたちは
「明日の朝、外で飛ばして、誰が一番高く飛ばすことができるか競争する。」
と話していました。

 最後になりましたが、ビタペクト2の購入費、そして「放射能と栄養」をコピーするために必要な経費を寄付してくださった皆様、またバザーなどで基金の活動費(折り紙用の紙など)を捻出してくださった皆様、竹とんぼを手作りで1本1本作ってくださった方に、この場を借りてお礼申し上げます。  →NEXT

辰巳雅子
          Date:2003/11/28(Fri)