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地下鉄ネミーガ駅階段事故 No.4

(2000/06/17 by T)

 雨が降り始めたのは午後8時ごろでしたが、8時20分には警察と救急車が事故現場に
到着し、救助を始めました。とりあえず、階段から人を引っ張り出して、西口左手にある、スビスロチ川の岸辺である草地に瀕死で、あるいは怪我で動けない人が寝かされました。

 ミンスクには全部で10の市立病院と救急病院があります。市立病院は順番に1から10まで番号がつけられているのですが、まず、第1、第2、第3病院に怪我人が運ばれました。第2病院だけで、60人の怪我人が収容され、救急病院にはその時、25人分しかベッドの空きがないところへ100人が運ばれました。死者はその後、第9病院と第10病院に収容されました。

 怪我人は救急車だけでは足りないので、パトカーや軍用トラックにも8ー10人ずつ
乗せられ、病院に運ばれました。それでも車が足りないので、イベント開催者である
ラジオ局「ミール」は自局の放送で
「地下鉄駅ネミーガで事故が起こり、大勢の怪我人が出ています。病院に運ぶための車が足りないので、もし、今この放送をお聞きの方で、マイクロバスを運転中の方、できたら、事故現場に行って、怪我人を運ぶのを手伝ってくれませんか?」
と呼びかけたのです。
それをカーラジオで聞いていた人で、ワゴン車やマイクロバスを運転中だった人が数名、事故現場にそのまま直行し、怪我人の運搬をボランティアで手伝ったそうです。

 その夜は非番だった医者や看護婦も呼び出され、不眠不休の介抱を続けました。病院には、怪我をしていない人も行方の分からなくなくなった友達や、外出をしたっきり、帰宅しない子どもが、事故に巻き込まれたのでは、と情報を求めて駆けつけた家族が殺到し、混乱が朝まで続きました。

 あまりにも怪我人が多かったため、死者のほうに手が回らず、運ばれてきたのが死体だった場合、とりあえず、病院の廊下の床に布もかけられず、放置されていたそうです。

 そのころには、ベラルーシのマスコミも現場や病院に来て、写真をかなり撮っていった
のですが、日本と違って、平気で死体の写真や映像をこちらのマスコミは流すので、私も
白黒写真で見ました。事件当日は暑かったので、みんなTシャツやブラウス1枚という格好をしている人が多かったのですが、それが雨で濡れたところを群集に踏みつけられたので、亡くなった方のほとんどは服がズタズタに裂けた状態でした。

 高校生や大学生の女の子が、服はボロボロ、全身は泥水で汚れた状態で、亡くなったところを発見され、病院の廊下に一時的とは言え、放り出されているのを写真で見て、息が詰まりそうでした。

 このような写真は(一応、顔ははっきり載せていないので、誰なのか確定はできない
ようにしてありましたが)ミンスクの新聞に載りました。遺族の人は抗議しないのかと
思うのですが、日本と人権に対する考え方が違うので・・・。

 あと、ベラルーシで初めて「号外」というものが配られているのを見ました。

 ところで、最初、この事故の死亡者は54人、と報道されましたが、間違いで、その後52人に訂正され、怪我人は300人、そのうち重傷が100人、意識不明の重体が7人、と発表されました。数日後、重体のうちの1人が死亡し、この事故の犠牲者は合計53人となりました。そのうち42人が10代、20代の女性・・・。一番の年少者は13歳の女子中学生でした。女性の犠牲者が多かったことについては、女性は力が弱く、押されても押し返す力がなかったからだと考えられています。

 事故の翌々日の6月1日は遺族の各家庭で葬儀の日となりました。クラスメートが亡くなり、クラス全員が喪服を着て登校、担任の先生といっしょにお葬式に行くようすがニュースで流れました。号泣する遺族の方もテレビに映し出されましたが、こういうのは、見ていられませんね・・・。

 街中には弔旗が掲げられ、各種行事は公私とも、中止か当分延期となりました。ちょうど、その年はロシアの詩人プーシキンの生誕200年に当たっており、さらにプーシキンの誕生日が6月6日なので、それにちなんだ文化行事がベラルーシでもたくさん予定されていたのですが、全て延期となりました。

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