ミンスク市立第1病院小児外科病棟
6.医療器具寄贈式典に関するベラルーシの新聞記事
寄贈式とそれに至るまでのいきさつが、ベラルーシの新聞に掲載されました。これはその日本語訳です。
連載(下)
「優しさの物語」
2002年9月25日付「ソビエツカヤ・ベラルシヤ」紙 (226号)
リュドミーラ・セリツカヤ (翻訳:辰巳雅子)
ここに驚くべき物語を述べる機会がやってきました。
「金色の着物を着て、お茶をあなたに・・・」の記事(9月14日付)の最後で、私はある日本人一家の話の続きをすることをお約束しました。日本の古都、京都からミンスクへ訪れたT一家は、自分達のためだけではなく、別のある目的を遂行するためにやってきたのです。
ベラルーシ人だけではなく、日本人でも遠方の客となって、異国の地を訪れる場合は、必ずお土産を持っていくことになっています。
最近おじいちゃんとおばあちゃんになったYさんとその妻K子さんは、血筋としては近いけれど、距離としては遠いミンスクで生まれた孫、Y子ちゃんだけに贈り物を持ってきたのではありませんでした。
辰巳夫妻はミンスクに何を持ってくるべきか、そう長く迷いませんでした。すでに6年間も『ベラルーシ的問題』の中で暮らしている娘の雅子さんが、すぐに小児外科病院には腹腔内視鏡手術器具が不足している、と話したからです。この医療器具の購入と寄贈は、チロ基金の主導によって行われました。この基金の名を初めて聞く本紙読者のために感動的な話をご紹介しましょう。
風景画のように美しい観光都市、高山に碓井さんというエンジニアがつつましく暮らしています。
1991年11月のある日、碓井家の玄関に汚れてお腹をすかせたプードル犬が迷い込んできました。優しい碓井さんはその犬をきれいに洗い、えさを与えました。その後その犬の写真を地元の新聞に載せ、飼い主を探しましたが、見つかりませんでした。
(日本でも家族の一員であったペットを簡単に捨ててしまう人がいるものです。)そこで碓井さんはこの命ある生き物を自分で飼うことにし、「シロ」と名づけました。
碓井さんは以前からチェルノブイリ問題に関心を寄せており、保養としてゴメリ州から来た被災児たちのグループをホームステイに招いていました。その
とき自分の両親と3人で子ども達を暖かく迎えていましたが、当時まだ独身で自分の子どもがいなかった碓井さんは、近所の子どもをベラルーシ人の子どもの遊び相手として呼んできました。近所の子ども達が「シロ」を「チロ」と呼ぶようになってから、碓井家の人々も犬の名前を変えることにしたのです。
その後チロが病死してから、碓井さんはその犬の名を冠した援助団体を創立することにしました。そしてベラルーシの人々のために心を砕くことにしたのです。
日本では雀のように、あるいは小石のようにつつましく、謙遜して暮らすことが美徳とされています。また一方で日本人はコンピュータの技術開発をす
る頭脳のどこかに、自分以外の人々の世話をやこうという人道的哲学を考えを持っています。こんな驚くべき民族が存在するとは特筆すべきことでしょう。
碓井さんはミンスクに住む辰巳雅子さんに現地での活動を任せることにしました。その後、上司に懇願し10日間の休暇をもらい、ベラルーシの地を訪れ、チロ基金の活動の成果を自分の目で確かめました。
読者のみなさん、お手元の濡れたハンカチはそろそろ乾いた頃でしょうか? 物語はこれで終わりではありません。
その後チロ基金の活動に賛同する人々が多く現れました。医療器具の購入にあたり、足りなかった費用の多くがそういった人々から寄せられました。
辰巳夫妻はその集まった寄付金を持ってベラルーシへと飛び立ちました。ベラルーシだけにではなく、日本にも税金の問題など、細かいことにこだわっ
たリスクがあるにも関わらず・・・。
多くの人が関わったこの贈り物が無駄になったら、どんなに悲しいかと読者の皆さんも思われることでしょう。しかし結果を先に言うと、全て予定通りにすんだのです。
K子さんは京都から約100キロほど離れた、兵庫県にある野間という小さな町の出身です。そこにある八千代ライオンズクラブと野間の会のメンバーにK子さんはこのチロ基金の活動について話し、この二つの会からも寄付金が寄せられました。「あなたのお母さんはライオンズクラブのメンバーですか?」と私は娘の雅子さんに尋ねました。「いいえ、私の母は京都の大学の中にある店でレジ係として働いていました。」さらに不足した額については、日本人女性たちが個人的に出資してくれました。日本人ですらこのような冗談を言っています。「戦後強くなったのは女と靴下。」
この言葉のとおり、今の日本人女性は常に強い希望を胸に抱くようになったのです。インターネット上で、ミンスク市立第1病院小児外科病棟に医療器具を寄贈したいが、資金が不足していることを雅子さんが訴えると、個人からも数名の日本人から、寄付金が集まりました。こうして無事に腹腔内視鏡手術器具を購入できるだけの金額が集まったのです。
辰巳夫妻とその次女N子さんは、荷作りをし、指折り数えてベラルーシへ旅立つ日を待ちました。寄贈式典の当日、小児外科病棟の一室に6つの科で働く医師が白衣を着て揃いました。壇上に着物を着たN子さんが上がり、極小のはさみのように見える医療器具を病棟長に手渡ししました。そのそばには祖母の腕に抱かれた生後9ヶ月のY子ちゃんがいました。
その様子をデジタルカメラで撮影したのは、定年退職したばかりの日本人の祖父でした。
式典の後、その医療器具を最もよく使用する緊急外科長であるアレクサンドル・スヴィルスキー先生は、年間に行われる腹腔内視鏡手術数が、これで飛躍的に増えると話しました。この病棟の医師たちはモスクワの「ジョンソン・アンド・ジョンソン」社へ研修に行きますが、そこで行われている手術回数は年間300−350件だそうです。しかし、このような方法で行われる手術のうち、最も難しいものの一つが食道潰瘍の手術ですが、それも合わせると、年間700−1000件の手術を行わなければならないと考えられています。
ちょうどこの病棟には、そういった手術に必要な器具が不足していました。「それで、いつからこの贈り物を使い始めるのですか?」と私は式典の後、スヴィルスキー先生の小さな医局で質問しました。
「まず徹底的に消毒しなければなりません。そのために6時間から8時間かかります。それさえすめば、うちの科ではいつでも好きなときに使いますよ。」とスヴィルスキー先生は微笑みました。
そして、そのインタビューの後、文字通り日本人のように早足で先生は手術室へと向かいました。
訳者註:
9月14日付「ソビエツカヤ・ベラルシヤ」紙に、9月8日と9日にかけて行われた日本文化情報センター創立3周年記念式典の記事が掲載されましたが、その続きとしてこの記事が書かれたことをお断りしておきます。
(前編は日本文化情報センター 2002年の活動にある「新聞記事」で読めます)
医療機器購入のため寄付をしてくださった方のプライバシーを守るため、日本語訳では省略した個所がありますが、ご了承ください。
また、この記事には寄贈式典のときの写真が併載されていました。
この新聞記事の原文はネット上で読むことができます。
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