(前編からの続き)
P:今ベラルーシでは日本の文化が流行っていますよね。村上春樹といった文学、映画とか詩。このような流行に合流したいと思いましたか? あるいは現代日本文化に対する興味を興したいとは思いませんか?
トーダル:このアルバム自体は何も興さないよ。ただ、とっても美しい・・・僕はそう思うな。すごくうれしいのは、僕がついに他の作曲家と交わることができて、自分が作ったわけじゃない歌を歌ってるってことなんだ。(* 確かに自分以外の音楽家が作った歌をトーダル君が歌うのは、非常に珍しいことです。)
この曲を聴いてみたら、たぶん10曲中8曲がメジャー調の明るい歌で、2曲だけがマイナー調の哀しい歌だと多くの人は思うでしょう。でもね、僕にとっては正反対なんです。8曲がマイナー調で、2曲だけがメジャー調の歌なんです。
日本文化の流行のことだけど、どうなんだろ、そんなこと考えもしなかったな。もちろん現実に流行に合流できたらいいと思うよ。でも一番大事なのは、このCDはベラルーシ人のために作った、ということなんだ。この文化をみんなで分かち合えたら、と思って作ったんです。(* トーダル君、よく言った! えらいぞ。拍手!)
P:アダム・グリョーブスは俳句を朗読しているのですか?
トーダル:いいえ、ただ自作の「日本風」な詩を朗読しています。(* あの挿入詩はベラルーシ人が感じるところの「日本風」なんだそうです。)
話し合って俳句はやめておこう、ということに決めました。俳句はない代わりにいろんな詩を入れました。ベラルーシの類似点もある詩もいくつかありますよ。そうしたら、本当に日本とは不調和なものができました。(* この不調和性をトーダル君は成功と捉えています。何せ「対比」がテーマですから。)
僕はいつも自分の音楽の中に、独自の映画やイラストが加わっているような、そんな音楽を作りたいと思っているんですが、今回それができたと感じています。
ところで、アダム・グリョーブスは日本について、いろいろ知っていますよ。その点、僕はほとんど素人。おもしろいと思うのは創作活動とその過程だね。
P:冗談でこのCD「月と日」はNeuro DubelのCD「タンキ」と比較されるのではないでしょうか? 「タンキ」も日本の美術観にどこか関連しているでしょう。ですから、同系統の分野という意味では、「月と日」はベラルーシ初の日本の歌のアルバムとは言えないのでは?
(* Neuro DubelのCD「タンキ」についてですが、ジャケットデザインをここで、ご紹介できないか検索したのですが、見つかりませんでした。「タンキ」とは「短歌」と「戦車」(ベラルーシ語で「タンク」)の複数形です。
ジャケットデザインを言葉で説明すると、表ジャケットの真ん中に戦車が2台、そしてその周りに桜の花が描かれていて、縦書きでバンド名やCDタイトルが書かれています。裏ジャケットは、灰色の筆文字で「ベラルーシはあなたのために ベラルーシはわたしのために」と下手な字で一面びっしり繰り返し書かれています。中を見ると、リーダーが中国風の衣装を身に着け、茶碗を手に持っている写真が・・・(茶道のつもり?)
正直言って、このジャケットデザインを見たとたん、購入する気が失せ、収録曲「タンキ」も私は聴いたことがありません・・・。
Neuro Dubelなんて、ブラックユーモア系コメディ・バンドなのに、「月と日」といっしょにしないでほしい。)(怒)(Neuro Dubelについてはこちら。ただしロシア語表記のみ。)
http://westrecords.by/artists.asp?artid=35&subid=15トーダル:Neuro Dubelのリーダー、サーシャ・クルリンコビッチに、日本の歌のCDを作ることについて、電話したんだ。でも彼は何も反対しなかったよ。(* クルリンコビッチに反対されたら「月と日」は作らなかったのか、トーダル君よ! 反対されても作っていただろう!)
僕は日本のオリジナル曲を演奏したわけだしね。確かに東洋をテーマにする作曲家は今までにたくさんいたよ。彼らは作品の中で
「ほら、このように自分は日本を見ていますよ。」
と言っている。でも僕が歌う曲は、もともと本当の日本人が作曲したものだからね。まあ、いろいろ言ったけど、もちろんこのアルバムには、僕の日本の芸術観に対する考えが存在しています。
マサカがくれたカセットテープに録音されていた歌のほとんどは、子どもが歌っていて、とても短かくて、簡素で、かわいらしいものだった。それはみんな、とても変っていて、それでいて、とても感動的な曲だった。
その後、僕は分かったんです。ベラルーシ人は、日本人とは違う! そして日本人は、ベラルーシ人とは違うんだって。(* 「そんなの当たり前じゃん。」なんて言わずに最後までお読みください、皆様。)これが分かったときの陶酔状態!
これらの日本の歌はとても奥深くて、その中にすごく真剣なものがあるんです。
そんなわけで、二つの文化が音楽を通して「出会う」・・・こういった方法を採ることにしました。
P:アルバムのタイトルは、どのようにしてつけたんですか?
トーダル:「月と日」というタイトルは、ちょうどベラルーシと日本の「出会い」を表しています。もっともこのシンボルマークはフランツィスク・スカリナのもので、普通、太陽と月と呼ばれるものです。スカリナの商標ですよね。マサカはこのマークがとても気に入っていました。日本語では、月と日という二つの漢字が「流れゆく人生」「時の輪」を意味するんだそうです。何かこう、静かで、永遠で、常に動きの中に存在するもの・・・。
このシンボルマークの意味においてでも、二つの文化が出会ったことになるんです。
でもまあ、何だかんだ言っても、このアルバムはとても日本的ですよ。ちょっとばかりロックンロールが入っているとしてもね。
P:ということは、このアルバムは、あなたの日本に対する熱い関心からではなく、実験したい、という願いから作られたのですね?
トーダル:これはとても難しいプロジェクトでした。でも、いつも僕はこのようなプロジェクトに心惹かれるんです。マヤコフスキーの詩に曲をつけたCD「MW」も同じ理由で作りました。これも簡単じゃありませんでしたよ。たぶん僕はエゴイスティックに自分自身のことを、音楽を通して「教育して」いるんです。
今、僕は日本についてもっと知りたい、と思っています。つい最近、ふっと分かったんです。日本の曲はとても簡素。ところが、その音楽を他の言語に訳することは本当に難しいことなんです。
P:あなたはいつも何かとても難しい課題や境界や束縛を、自分に課していますね。でも人生は常に理想的であるとは限りませんよね。失敗については、どのように対応していますか?
トーダル:権力組織のある決まった範囲のためには、前もって失敗することを予測しておくようにしているよ。
僕はよくステージに立つようにしていて、それで古くからの固定ファンもいます。難しいことをわざとしたくなるのは、心理的問題だね。つまり、僕は自分に地平線を広げさせ、自分自身の視界を広げるような企画が好きだっていう「問題」です。そして、そのために全てのプロジェクトを現実のものにしようとします。
もちろん、自分自身を高めることは、おそらくないだろうと思われるテーマは最初から選びません。個人的な嗜好で選ぶようにしているんです。例えばマヤコフスキーと僕は誕生日がほとんど同じで、マヤコフスキーの人生は難しいものだったけど、僕の人生も「楽しい」もんですよ。
(* でも、マヤコフスキーのように、とある病気に罹ってしまったり、自殺(現在は他殺説有力)などは、トーダル君にはしてほしくないです。マヤコフスキーより、何百倍も幸せな人生を彼には歩んでいってほしいです。私からの心からの願いです。)
確かに僕はいつも自分の目の前に、野心に満ちたプロジェクトを置くようにしています。でも、それを成功させるには、たくさん働いて、知って、読んで、感じて、常に自分の表現力を磨いていなければならない。それに僕には献身的なファンがいます。いっしょになって、表現力の進歩を手伝ってくれる、ファンの感想がね。
多くのベラルーシ人リスナーは低品質の音楽に慣らされていっている。単純で原始的な音楽です。まじめな音楽を聴いたり、それについて考えたり、詩を読んだり、まじめな絵画などを見る人は減ってきています。
芸術を理解すること、それは本当に大変な作業。それが分かっている人々も少なくなってきている。ミンスクにとっては、これは現代の問題だよ。僕の創る音楽が、何とかこの現状を変えることができれば・・・と僕は願っているんです。
・・・・・・・・・
この画像も「РИО」からです。
トーダル君インタビュー記事は全部で4ページに渡っていましたが、そのうちの最初の見開き2ページを撮影しました。(この画像の掲載は許可を得ています。)
「月と日」プロジェクトがトーダル君にとって、「地平線を広げさせ、自分自身の視界を広げる」ような企画であったことを祈ります!