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プロフィール 2003年1月現在
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☆ベラルーシの部屋は、ふたりで作っています☆
主な文章はベラルーシのT。
サイトを管理しているのはさばです。
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■ベラルーシのTは、本名、辰巳雅子(たつみ・まさこ)と申します。
◆1970年京都生まれ。1995年からベラルーシ共和国、ミンスク市在住。
◆いろいろ活動をしていますが、私自身の心の中ではチロ基金現地責任者としての自覚が一番大きいです。公的にはミンスク市立第5児童図書館付属、日本文化情報センター代表(図書館員)です。この他ロシア語とベラルーシ語の通訳と翻訳の仕事もしています。
◆1982年 小学6年のとき初めてロシアに興味を持つ。
<きっかけは複合的で、テレビで「シベリア鉄道の番組を見た」「戦争の特集番組で『ターニャの日記』のことを見た」「学校の社会科の授業で、ウクライナの家族の日常生活を紹介する教材ビデオを見た」・・・といったことが、ほぼ同時期に起こったから。それから子供向けの百科事典で、ソ連のことを調べたりするようになった。このころは単純に「世界で一番大きい国に行ってみたい。」ぐらいにしか思っていなかった。>
◆1983年 中学1年のとき、ロシア語を一人で勉強し始める・・・が、すぐ挫折。
<でも、ソ連に関する本などは読んで知識を集めていた。(と言っても、せいぜい子どもの知識の範囲。)>
◆1990年 大学生になって、ロシア語の勉強を再開する・・・が、その頃はまだ趣味の範囲内だった。
<ちなみに大学で専攻していたのは、教育社会学で、卒論のテーマは「ロシアにおける新教育システム」この年から、ロシア語の勉強のためベラルーシ人の中学生とロシア語で文通を始める。これがベラルーシとの最初の出会いで、運命の回転の始まりだった。>
◆1992年夏、ロシア、ベラルーシ、ウクライナ、フィンランドを1ヶ月かけて一人旅。思い出は本にまとめて1994年に自費出版。題名は「マサーカのロシア一人旅」
◆1994年4月から1995年1月まで、ロシアのウラジオストックにある極東大学付属の外国人向けロシア語学校に留学。 <しかし趣味だったロシア語を本格的に勉強しようとやってきたのに、日本から近いウラジオには日本人が大勢留学しており、さらに同じ寮の中でかたまって暮らしていたため、つい日本語ばかり使ってしまいロシア語があまり上達しなかった。そんな自分の怠け心に鞭打って、日本人のほとんどいないベラルーシに留学することを決意。ウラジオでの留学期間終了後そのままベラルーシへ移動。>
◆1995年2月から、ベラルーシ大学付属外国人のためのロシア語コースに留学。
<本当に日本語を全く使わない生活に入る。おかげで、だいぶロシア語が上達し、自分でもまあまあ満足して、そろそろ帰国しようかな・・・等と考え始めた矢先、当時住んでいた大学寮で、ルームメイトの友人だったS夫と出会ってしまう。>
>>だんなさまはどんな人? とおもったらどうぞ♪
◆1995年の秋、S夫と結婚することに決めて、ベラルーシ永住を決意。就職活動をする。
◆1996年2月から6月まで、ミンスク市立言語学大学で日本語教師として働く。
◆1996年5月、結婚。
◆9月からベラルーシ大学国際関係学部に日本語教師として就職。
<このころ、辞書を集める運動をしていて碓井博男さんと出会い、1997年5月チロ基金設立。基金の現地責任者になって、現在に至る。(これらの活動についてはチロ基金のコンテンツをご覧ください。)>
◆1996年から2002年まで、日本にある二つのチェルノブイリ救援団体のボランティア活動を手伝う。
◆1999年5月、3年間働いたベラルーシ大学を退職。
◆同年9月9日に開設された日本文化情報センターの代表に就任。現在に至る。
◆2000年1月、日本の某テレビ番組に家族とちょっと出演。
<しかし、内容に間違いが多く、うんざりした。例えば、私の氏名が間違って放映された。夫は「バイトしかしてない」とフリーター扱いされた。食料品は夫の両親から分けてもらっている、などと放映された。そりゃあ、畑で取れた野菜をちょっとはもらってますけどねえ。この番組を見た方へ。この番組の内容は鵜呑みにしないでください。お願いします。>
◆しかし、この番組放映後、ベラルーシに興味を持ってくれた日本人の方々が増えたと聞き、さばさんの広ーい心と深ーい情けにすがって同年2月1日 からHP「ベラルーシの部屋」を作ってもらい、現在に至る。
◆2001年11月に長女誕生。
<ベラルーシでの妊婦生活・出産の記録は「長期滞在者情報」の中の「マタニティ・レポート」「出産レポート」で、お読みいただけます。>
◆2003年1月現在は育児休暇のため、日本文化情報センターの仕事はお休みしています。でも、その他のチロ基金の活動は、単発的に行っています。
◆日本文化情報センターが日本文化をベラルーシに広める場なら、「ベラルーシの部屋」はベラルーシ文化を日本人に広める電子の部屋だ! ・・・と考えて、これからも努力することを誓います。
これまでに出たメディア一覧 (すいません、最新版ではないですby saba)
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■ベラルーシの部屋を管理しているのは、さば(杉村 由美子)と申します。 ベラルーシの部屋内では「さば」さんでお願いします。
◆千葉県在住。服の検査に関わる仕事をしています。だんなさまがひとりいます。
◆日々のどーでもいいことをこちらで書いています。(ベラルーシのことはなしです・・)
◆何度か聞かれたので、Tさんとわたしのなれそめ(?)をご説明すると、「共通の友人を通じて」知り合いました。私は大学生のとき、被服学を勉強していて、ロシアもロシア語もまったく関わり合いのない世界にいたのですが、いっしょに勉強していた友人が「卒業したらロシア語の勉強をしたい」と言い出したのがきっかけで、少しずつロシアに対して興味がでてきたわけです。
◆そして、大学を卒業して、1年ほど経ったとき、たまたま、高校時代の友人と会い、「私の友達でね、卒業後、専門と違う方向へ進んだ人がいる。今はロシア語を勉強して、将来はロシアで仕事がしたいといっている」と話すと、その友人が、
「私の友達で、こんどベラルーシってとこで就職する子がいる。旧ソ連の国らしいけど知ってる?」というのです。
それで興味を持って紹介してもらい、Tさんと初めてお会いしました。
<ちなみに、Tさんと私は高校卒業までついご近所(歩いて15分ぐらい)の距離で暮らしていたのですが、それぞれ別の中学校、高校だったので、一度も顔をあわせたことがなく、そのくせ、地元の思い出は妙に一致していたり、共通の友人がいたりと、実は結構ニアミスしています^^;
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◆そして、Tさんとお会いして前向きでパワーのある人生にすっかり共感して、更には1997年に初めてベラルーシへ行ったときに大変お世話になり、何かお手伝いできないかなあと思ったのが今につながっています。
◆ベラルーシへ行ったとき、最初は挨拶すら通訳してもらう有様でした。(なさけない・・)その後、98年に5月のミンスクへ行き、戦勝パレードを見ました。99年8月には3度目のベラルーシ行き。念願のズーブルも見ましたし、グロドノの美しい街も見ました。2001年7月にはミール城、ネスヴィシュ、それから田舎生活も体験してきました♪
◆遠い日本にいて、ベラルーシのことをどれだけ伝えられるかわかりませんが、出来る限りTさんのサポートをしていきたいと思っています。なかなか、更新ができずに申し訳ないですが、どうぞ気長におつきあい頂けると、とてもうれしいです。
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