プロフィールつづき
しかし、2年後、22歳の時にに除隊。軍人生活が気に入らなかったらしい。やっぱり。
その後しばらくミンスクにある工場で金属加工の仕事(旋盤工)の仕事をしていた。
・・・が、単調な生活にすぐ飽きて(やっぱり。)ベラルーシ映画スタジオの
セット制作班に就職する。
当時、ベラルーシ映画スタジオは戦争映画(第二次世界大戦中のパルチザン部隊の
活躍など)ばかり作っていたのだが、それのセット、例えばナチスに攻められる当時
のベラルーシ村を再現したり、パルチザンの秘密アジトの小屋なんかを作るのが仕事
だった。
しかもセットを作るだけではなく「若いから」という理由だけで、監督にスタント
マンの役までやらされていたらしい。自分が作ったセットの小屋の、しかも、ナチス
に放火されて燃えている2階部分から、俳優が着ていた衣装を着て「エイヤ」っと地
面に飛び降りたり(危ないなあ。)いろいろやっては、200ルーブルだかのバイト
代をもらっていた。
(私はこの映画が見たくてしょうがないのだけど、未だに見つかりません。ベラ
ルーシ映画スタジオの倉庫の片隅に埃かぶっていそう。)
ともかくも映画初出演を果たす。(???)
その頃、偶然、ハングライダーが登場する映画を見て「これだ!」と叫ぶや、ミン
スクにあるハングライダークラブに入会。半年後にはハングライダーの社会人選手に
なる。
ベラルーシにはハングライダーができるような風の吹く山がないため、ソ連領内で
山のあるところへ、他の選手たちと一緒にトラックに乗って行ってはキャンプをして
練習をしていた。天山山脈の上を飛んだこともあった。
飛んでいるのは旦那さんです。 ちなみに、下の写真、追いかけているのはいったい誰? Tさんではないはずなんですが・・・うまいぐあいに写っている。by saba |
ハングライダーの時間を作るため、ベラルーシ科学アカデミーのトラクター開発部門に転職。
日本のように企業のないソ連では、新型トラクターの開発も国(おかかえの研究者)が
行っていた。研究者が新しいトラクターの設計図を考案すると、とりあえず、それに
したがって1台試作品を作る。それでOKが出ると、工場で大量生産されるようにな
るシステム。S夫の仕事はその試作品トラクターの金属でできている部分を全部一人
で作ること。2週間で1台作っていたらしい。新しい試作品を作る予定ができて、
呼び出されるまでは仕事が無いので、その時間はハングライダーの練習をしていた。
1985年11月、26歳の時、ハングライダー世界選手権に出場が決まり、
ミンスク郊外の野原で練習中、墜落事故。
5日間、生死の境をさまよっていたが、生還。しかし、両足に障害が残る。事故か
ら半年間は文字どおりベッドに釘付け状態で、寝返りもうてなかった。その後も入退
院と手術を繰り返す。自宅療養中は四つんばいで家の中を這っていた。
後になってこの頃、チェルノブイリ原発事故(1986年4月26日)が発生して
いたことが分かったが、放射能がミンスクに降り注いだ日も、S夫は入院中だった。
入院中は聖書と哲学書ばかり読んでいた。その結果、宗教の中ではキリスト教が
もっとも正しいと確信。その後ロシア正教徒になる。
退院後は、もちろん科学アカデミーの仕事もやめて、ひたすら自宅療養をしていた
が、どうせじっとしているなら、何か有益なことを聞きながらじっとしているほうが
いいのではないかと考え、28歳のとき、ベラルーシ工業大学に入学。大学生にな
る。
通学には手製の車椅子と自転車の中間のような物(足を伸ばせたまま乗れる)を使
い、構内は杖をつきながら、10歳若い学生たちにまじって講義を聞くが「科学アカ
デミーで働いていた俺にとっては有益なものがない」と思って1年で中退。実際は自
分が学者肌ではないということに、気づいたからだと思われる。
自作の寝たまま自転車(?)うーん、器用ですね〜 by saba |