プロフィールつづき

 

 仕方ないので近所の自転車修理所で修理工として働き始める。同時に鈍った体を鍛
 え直すためスポーツをしようと考え、手始めに座りバレーボール、(みなさん、これ
 見たことあります? 障害者スポーツの1種。絶対普通のバレーより難しいと思う。)
 円盤投げ、砲丸投げを試みる。
 ちょうどその頃、有名なソ連の円盤投げ選手(女性)が引退してトレーナーをして
 いたので、その人に師事していると、そのトレーナーの引退後の人生がドキュメンタ
 リー映画として撮影され、S夫も円盤投げをして、5秒間ほど出演。(ビデオで見た
 けど、お腹が出ていなくて若い!!!)

 でも、円盤投げをしても、砲丸投げをしてもすぐ、身体障害者スポーツマンの間で
 はチャンピオンになってしまったので、つまらなくなり、子どもの頃好きだった射撃
 をしようと、射撃クラブの戸を叩く・・・が、その当時はあのペレストロイカの真っ
 最中で、パン屋に行列ができたの、店の陳列ケースがからっぱだったのという、ソ連
 経済が最も混乱していた時期。射撃のナショナルチームですら練習に使う弾が不足し
 て困っており、S夫の入門は断られてしまう。
 それなら、打っても引き抜いて何度でも使える矢を使ったスポーツをすればいいで
 はないか、と考え、アーチェリーへの道を選ぶ。1年後には身体障害者選手の中では
 ベラルーシのアーチェリーチャンピオンになる。
 その後、ベラルーシ障害者アーチェリー選手の代表として世界選手権等に参加。
 1991年生まれて初めて海外へ。行き先はベルギーのヨーロッパ選手権で
 国際試合初登場で5位入賞。彗星のごときデビューを果たす。(?)
 1992年バルセロナ・パラリンピックに旧ソ連の連合チームの一員として、
 参加。(ソ連がソ連として参加したのは1988年のソウル・オリンピックまでで、
 1996年のアトランタ・オリンピックからは「ロシア」「ベラルーシ」「ウクライナ」
 「カザフスタン」・・・と独立国家単位で参加している。)
 バルセロナでは団体4位、個人総合9位。このころは長時間立っていることが難し
 く、椅子に座った状態での参加だった。

 1996年5月、結婚。同月フランスで行われたヨーロッパ選手権で3位に入賞。
 これが今のところ、S夫のアーチェリー人生における最高記録。
 おかげでベラルーシの優秀なスポーツ選手300人名鑑の中に入れられる。
 この夏、参加したアトランタ・パラリンピックでは試合の最中、弓が壊れるという
 ハプニングが起きて予選落ち。
「ま、参加することに意義があり。スポーツだけが人生じゃないさ。」と妻。

 この年の秋、オフシーズンに入り暇ができたので、前からやらないといけなかった
 右足親指の手術を受ける。これが人生16回目の手術。この手術の後、だいぶ早く歩
 けるようになる。あともう1回、右足かかとの手術が残っており、それをするともっ
 と歩くのが楽になるらしいが、本人が嫌がるのと忙しいのとで、まだしていない。

 1998年ベラルーシ射撃ナショナルチーム、及び、ベラルーシ陸軍所属射撃チー
 ムのテクニカル・トレーナーとして就職。現在に至る。
 トレーナーと言っても教えるのではなく、要するに射撃用のピストルの修理、点検
 をしている。国内試合のときには使用するピストルが基準に合っているかどうか参加
 者のピストルを全部チェックしている。試合中故障した場合は、30分以内に修理す
 れば引き続き参加できるという規定があるので、国際試合の場合ベラルーシの選手の
 ピストルが壊れたら、飛んでいって直さないといけない。
 兵役義務中に学んだことが、ちゃんと仕事に生かされているではないか。陸軍なら
 日本企業のように倒産なんてしないだろうし、とにかく定年になるまで、無事働き続
 けてー! と妻。
 他にも猟銃やコレクション用のアンティーク銃、はたまたルカシェンコ大統領お付
 きのボディーガードが持っているピストルも修理しています。
 そんなわけで、みなさん、もしお手持ちの銃が壊れたら、修理いたします。お安く
 しときまっせ!!!

 アーチェリーのほうは国が貧乏で、障害者スポーツへの予算削減をしているため、
 これから国際試合に出場できるかどうか分かりません。でも、まあ、どっかの試合で
 見かけたら応援してやってください。
 本人は健康のため、じいさんになってもアーチェリーは続けると言っていますが・・・?

         旦那さんの日常写真へつづく