日本文化情報センター開設3周年記念式典について、ベラルーシの新聞に掲載されました。
以下は日本語訳です。


連載(上)

「ある愛の物語・金色の着物を着て、お茶をあなたに・・・・・」


 2002年9月14日付「ソビエツカヤ・ベラルシヤ」紙 (219号)

 本文:リュドミーラ・セリツカヤ (翻訳:辰巳雅子)

 落ち着いた、そしてなめらかな動きで小さな竹のひしゃくが、粋な着物姿をしたK子さんの手の中で持ち上がり、お湯が釜の中に流れていきました。この様子を見ているのが私ではなく、日本人の歌人なら、俳句か和歌の一つもその場で生み出していたことでしょう。

 しかし私も、新聞記者としてへぼ詩人よりはずっとましに、このすばらしい作法の様を記すことができると思います。記したいことはと言えば、火の鳥のように輝く金色の着物を着た亭主が迎える茶の湯の席に、京都の上に広がる空のように青い着物を着た客人が、お辞儀をしながらやってきました。しかしその茶席は、日本ではなく、ミンスクで行われたのです。月の光が見せるような奇跡が児童図書館の一室で起こったのです。参観者たちは、目を釘付けにしていました。しかもその日、日本は菊の節句でした。

 辰巳夫妻とその次女N子さんは、特別にまた無料でミンスクの人々に、この御伽噺のシーンのような茶の湯を見せるため、京都からやって来ました。

 釜やひしゃく、そして茶碗まで異国の地にわざわざ運んで来たのは、自国の文化に対する深い愛からなのでしょうか?
 YさんとK子さんの文化に対する愛は、茶道具だけに表れているのではありません。お二人は着物を身につけ、木製の下駄や絹で覆われたぞうりを履いていました。
そして図書館に集まった参観者にも緑色の日本のお茶を振舞ったのです。

 しかし、彼らがミンスクへ飛んできたのは、茶の湯のためだけではなく、ベラルーシで生まれた孫、Y子ちゃんに会うためでもありました。おじいちゃんとおばあちゃんになった辰巳夫妻は、生後9ヶ月になり、はいはいができるようになっていた小さなY子ちゃんに初めて会うことができました。
「一体この人たちはどんな家族なのか?」
とすでに読者のみなさんはお思いでしょう。では話を最初から始めることにしましょう。

 事の起こりは全て1994年に始まりました。日本の国そのものと同じぐらい長い歴史を持つ、京都に住む雅子さんという一人の小柄な女性が、真剣にロシア語を勉強をしようと決心し、ロシアのウラジオストックへ留学しました。
 しかしこの沿海州の都会には日本人が多く、外国語だけではなく、文化や哲学も学ぼうという雅子さんの偉大な夢はかないませんでした。そこで、彼女は別の場所・・・ベラルーシへ留学先を変えることにしました。
 ミンスクで語学を学び、国立ベラルーシ大学で日本語教師の職に就きました。そして大学の寮で暮らしていました。

 ある日、寮のルームメイトのところへ、ウクライナ人みんながそうですが、陽気で冗談の好きなS・Bさんが遊びに来ました。
 彼はサハリンの生まれで、スポーツマンであり、スポーツ銃整備士です。その彼の目に日本人形のような雅子さんの姿が止まりました。
 このようにして6年前に変わった、大きな意味ではごく普通の、強い愛で結びついた家族が生まれました。

 優しくて世話好きの夫に親切な隣人、ジャガイモから作ったベラルーシ料理・・・この日本女性にとってベラルーシの生活はうまくいきました。しかし故郷と残してきた両親への思いだけが、雅子さんの心に引っかかっていました。
 そこで雅子さんは日本とベラルーシと言う二つの国を、一つにすることにしたのです。
 そして信じてください。彼女は本当に一つにしました。

 彼女にとって大きな幸運はミンスク市立第5児童図書館長の理解を得られたことでしょう。館長さんは図書館の書庫だった部屋を、日本文化情報センター設立のため、空けてくれたのです。そして雅子さんは夫とともにその部屋の内装を行いました。
 さらには雅子さんはこの児童図書館の館員になりました。

 3年前の日本文化情報センター設立記念式典には、雅子さんの家族だけではなく、在ベラルーシ日本大使も出席しました。他にも図書館にどれほど多くの招待客が訪れたことでしょう。

 その後、雅子さんは異国情緒に満ちた日本文化情報センターで、日本映画上映会、着物展、日本の民芸品やおもちゃの展示などを精力的に行いました。私自身もこのような催し物に出席したり、また近所に住む雅子さんの自宅へお邪魔したりしました。

 やがて雅子さんとS・Bさんに娘が生まれました。混血ゆえに将来美人になるのはまちがいありません。

 さて私自身、仕事で日本へ行ったことがあります。そのとき京都の雅子さんの両親と知り合うことができました。世間は狭い、とはこのことです。K子さんとYさんは他の日本人と同じようにエネルギッシュな人でした。床に正座して座り、飲み物を勧め、(私も勇気を出して正座をしました。)まだ見ぬ初孫の話を私から聞きたがりました。
「うちの孫は大きい目をしていますが、本当に大きいですか?」
 辰巳夫妻はメールで送られてきたY子ちゃんの画像を見ていたので、このような質問をしました。
「ええ、とっても大きいですよ。」
と私は答えました。
「もう歯は生えてきているのかしら?」
ときいたのはおばあちゃんでした。
「いえ、まだのようです。」
と私はジェスチャーで答えました。
「Sは雅子の手伝いをしていますか?」
と真剣な面持ちで父は尋ねました。
「哺乳瓶を持ってベビーベッドまで、ダチョウのように駆けつけていますよ。」
と私は表現しました。
 このような冗談抜きでは、おじいちゃんとおばあちゃんが遠くに住む孫を見たいという待ち遠しい気持ちを押さえることはできませんでした。

 そしてついに、待ち望んでいた時が来ました。辰巳夫妻は日本からベラルーシへ来るときに、孫へのプレゼントだけではなく、着物の着付けに必要な物も持ってきました。それは日本を心から愛していながらベラルーシに永住することを決めた娘の希望でした。

 この一家はミンスクに住む人に美しいある物を、見せようと企画していました。このような方法で、二つの国、二つの民族を結びつけようとしたのです。
 竹のひしゃくの飛ぶような動きは、私のジャーナリスト的な眼差しで見てよければ、優美な白鳥の踊りのようだった、と表現してもいいでしょう。
 児童図書館でのお点前の披露は日本文化情報センター開設三周年を記念して行われました。あるいは、長い間会うのを待った祖母からのつつましい子守唄なのでしょうか? それを全く白髪のない、若々しい祖父がちょっと羨ましそうに眺めています。

 どちらにせよ、平和な家族の像のほうが私には印象に残りました。それは、もしかすると辰巳一家のミンスクに来た三つ目の目的を知ったからかもしれません。それも一つ目と二つ目の目的と同じように美しいものです。
 しかし、それについては、この連載の続きでお話しましょう・・・。
 


 
 訳者註:この連載の続きは、2002年9月25日付「ソビエツカヤ・ベラルシヤ」紙に9月5日に行われたチロ基金の活動・医療器具寄贈式典の記事として掲載されました。この記事には式典のときの写真が併載されていました。
(後編はチロ基金 医療器具援助内の「新聞記事」です)
 本文中、茶道具を日本から運んできたとありますが、実際には全てではなく、以前に日本人の方から寄贈していただいたり、釜は現地で製作したりしました。
 また、私と夫との馴れ初め話が紹介されていますが、実際にはベラルーシ大学留学中に知り合ったので、教職についていたときのことではありません。

この記事の原文はネット上で読むことができます。
原文題名「В золотом кимоно я подам тебе чай...」
http://sb.by/