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ベラルーシ語の歴史

では、ベラルーシ語会話を紹介する前に、ベラルーシ語そのものについて。

  ベラルーシ語はスラブ語系の東スラブ語の一つです。そもそも、古期ロシア語というのがあり、やがてそれからベラルーシ語、ロシア語、ウクライナ語の3つの言語が分化していきました。

 現在のベラルーシの領域の西半分が1230年代にリトワニア大公国の領内に編入されると、初期ベラルーシ語がリトワニア大公国の公用語に定められました。 リトワニアにはリトワニア語を使うリトワニア人が住んでいたのに、なぜ? と思いますが、当時は文章語としてはベラルーシ語のほうがリトワニア語より、発達していたからです。 つまり、リトワニア大公国の歴史の記述や法令、手紙などの文書は初期ベラルーシ語で書かれるようになり、会話はそれぞれの民族によって異なっていました。リトワニア人はリトワニア語で、ベラルーシ人は初期ベラルーシ語で日常会話をしていたのです。

 リトワニア大公国の公用語になってから、初期ベラルーシ語はさらに発達し、15世紀中頃ごろ文章語として確立しました。ところで初期ベラルーシ語に使われていた文字は現在のようなロシア語で使われているキリル文字ではなく、ヨーロッパで使われているアルファベット文字でした。 北はバルト海、南は黒海までの広大な領土を治めていたリトワニア大公国の国際的影響力を受けてか、中世時代はモルドヴァやルーマニアでも外交文書は初期ベラルーシ語で書かれていました。ポーランドのクラクフ王宮の貴族たちも初期ベラルーシ語を使っていました。

 しかし、リトワニア大公国が1569年ポーランド王国と連合し、事実上の従属領となると公用語はポーランド語に代わり、1696年には口頭以外のベラルーシ語の使用が禁止されてしまいます。

 こうしてベラルーシ語受難の時代が始まるのですが、1795年に現ベラルーシ領域がロシア帝国に併合されると、ベラルーシ語はキリル文字で書き表されるようになります。 現代ベラルーシ語の基礎、現代ベラルーシ文学の発達・確立までには、20世紀初めに活躍したヤンカ・クパーラなどの文学者の功績を待たなければなりませんでした。

 ソ連時代にはベラルーシ語の使用や教育は民族の権利として認められたものの、実際にはロシア語がソ連邦全体の公用語として、ベラルーシ語より優先されていました。 例えばロシア語は小学校1年生から教えられるのに、ベラルーシ語は小学中・高学年から教え始められる、という状態でした。高等教育機関では ロシア語で授業が行われ、出世するにはロシア語ができなくてはいけませんでした。このようなロシア語への比重の重さは都市地域で特に増えていきました。地方では家庭内でベラルーシ語を使っていても、公の場ではロシア語を使うのが当然であり、都会では家庭内でもロシア語が使われるようになりました。

 また、スターリン時代にはベラルーシ語の文法などが意図的にロシア語風に変えられ、ベラルーシ語はさらにロシア語に近づくことになります。 残念なことに、現在もこのロシア語風ベラルーシ語を使用している人口が、正統なベラルーシ語の使用人口より増えています。正統・現代ベラルーシ語は死語になりかかっています。 またポーランド国境に近い地域ではポーランド訛りのあるベラルーシ語が、ウクライナ国境に近い地域ではウクライナ訛りのあるベラルーシ語が話されています。

 1991年にソ連が崩壊すると、それまでの反動としてベラルーシ共和国の公用語はベラルーシ語のみになりました。そのときの政府の計画では1993年までにテレビ、新聞、各種の表示を全てベラルーシ語使用とする、1995年までに公務員は全員ベラルーシ語収得を義務とする・・・ といったことが目標とされていました。 しかし都会ではロシア語人口のほうが圧倒的に多かったため、この急激なベラルーシ語使用強制案は現実性を持たず、1995年にはベラルーシ語とロシア語の両方が公用語に定められました。

 今はソ連時代に比べると、ベラルーシ語が使われる機会がずっと増えたと言えます。しかし、ベラルーシの人々はロシア語もできるので、日本人がベラルーシに来て、ベラルーシ語が分からないと生活に困る、ということもありません。

 

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