2000年9月にNHK教育「ETV2000」で放送された
「破滅の20世紀」についての感想です。

明日も見てみます 投稿者:石川顯法  投稿日:2000年 9月 4日(月)23時07分31秒

 御案内をいただいて、10時からの番組、拝見しました。
 徐さんも含めてお二方のお話、とても重く、すぐに感想をと言われても
簡単には書けません。とりあえず、明日の晩も何としても見てみようと思
っています。
http://www.asahi-net.or.jp/%7eri8a-iskw/


感想です 投稿者:さば(管理人)  投稿日: 2000年 9月 5日(火)00時33分55秒

  みました(といっても、帰ってきたのが10時すぎていたので、半分ぐらいしかみれませんでした)
重い内容でしたね。「チェルノブィリの子どもたち」しかアレクシェービッチの著作を読んだ
ことのない私は、彼女がこれほど人間の恐ろしい面をつきつめて、真剣に見つめてものを書く
人だとは知りませんでした。

彼女のお祖母さんが彼女に話したドイツ兵の話、何か心に訴えるものがありました。
明日も期待してみますね


番組の感想 投稿者:哲学の道の住人  投稿日:2000年 9月 6日(水)01時20分45秒

  ひさしぶりに心が、洗われような経験をしました。
徐さんという人の人柄の深さと寛さがが、テレビをとおして伝わってきました。
私が、まだ知らない世界のいろいろな事。名もなきふつうの人たちの声をきいてみたい気がしました。


感想(私たちが恥ずかしかった) 投稿者:T の父、母  投稿日:2000年 9月 6日(水)23時16分52秒

 大変感動しました!と言う感情ではなく私たちの様な知識のない者にも
すごく分かりやすく、理解でき、まさしく「小さき人々の記録」で
人間として、どんなことでも、眼を閉じることなく、
しっかりと、受け止めなくてはならない!と実感しました。
 お二人の対談は、人間の原点に連れ戻された気持ちになり、
世界中、60億の人々に観てほしい放送でした。
 20世紀の人類が犯したあやまちが、21世紀に再び繰り返されない事を、
心から願わずにはおられません。
 小さき私たちの、ささやかな活動が、どこかに届いてほしい!!


やはり重たい 投稿者:石川顯法  投稿日: 2000年9月10日(日)00時00分38秒

 書き込むのが遅れましたけれど、2晩目も見ました 。
 オンラインで短時間に感想が書けるようなものではやはりないというのが率直な「感想」です。21世紀を目前にした今、20世紀という何とも形容のしがたい時代を生きてきた我々にほんとうに難しい問題を投げかけられたと思っています。
 アレクシェービチさんと徐さんは、「小さき人々」の側に立つ人として、あるいは“小さき国”の人として互いに深いところではほんとうに共通の問題意識をもっていらしたのだと思いますが、ただTVを見ている側からするとお話がしっかりかみ合えていたのかという感じも率直に言ってしました。ああいう場での通訳の方っていうのはほんとうに難しいと思いますし、たとえば徐さんが「商業主義」のことを言われたけれど日本などと違ってほとんどああいうような環境にないアレクシェービチさんにはそれが伝わったのかとか、あるいは連日のニュースでチェチェンの生々しい報道がされるロシアとは違って日本にお住まいの徐さんにあのチェチェン報道のお話がどんなふうに伝わったのか....等々
 再放送があるとのことですので、その情報は関心を持ってもらえそうな人たちにネットを通じて伝えます。また、岩波から訳書が出ていることがこの掲示板に書かれていましたので、ぜひ注文して読んでみようと思っています。  ご案内をくださった管理人のさばさんをはじめ企画された放送局の方など、ありがとうございました。


感想 投稿者:さば(管理人)  投稿日: 2000年9月10日(日)22時49分01秒

おそくなりましたが、感想です。
後半は「チェルノブイリの祈り」の内容がおおかったですね。 最初の「孤独な人の声」
(だっったっけ?すみません、今本が手元になくて・・) の話をアレクシェービッチ本人から語られると、また、この話を読んだときの 衝撃がよみがえってきました。
あの話が、映画や小説のストーリーだったら、どんなによかったことでしょう。 でも、彼女の語った話は、現実にあったことで、そして、「これからも十分 起こりうること」である、ということが、私にとっては大変重く感じられました。
アフガンの話も・・「スプーンですくう」話ですね。これも聞いていて背筋が ぞくぞくしました。こういう話をきくと、ホラーよんでも怖いと思わなくなってしまいそう。 現実の恐ろしさに比べれば。
おふたりの対話ですが、やはりわたしもかみあっていない部分があるなぁと思いました。 (お互いに伝えたいことが先行してしまった印象がありました) ただ、テレビ放映の為にカットされてしまったのかな?と思っています。
徐 京植氏はアレクシェービッチの著作をお読みになられていたのは、わかりました。 対談の雰囲気は理想的な感じだったのではないでしょうか。
今回は対談としてはとても面白かったのですが、アレクシェービッチについて、 日本ではほとんど知られていない状態なので、彼女についてのドキュメンタリーが あったらいいなぁと思います。


「速さ」と「強さ」からの訣別 投稿者:永江雅俊  投稿日:2000年 9月11日(月)00時19分09秒

 考えながら、みせていただいた。チェルノブイリ汚染地を訪ねた、過去6回の ベラルーシでの出会いを思い起こしながら、見せていただいた。
 人は、何処へ向かって歩んでいるのだろうか。ニップル河の向こうにチェルノブイリを見たとき、30キロゾーンに入り埋められた村の大地に立ったとき、廃墟の村でくもの巣をかいくぐり散らばっている部屋に立ったとき・・。  何故・・。声をあげて泣きながら村の人と別れた朝、残留放射能の中で寝っこ ろがって青い雲を眺めた午後、凍てつく寒気の中を子供たちに手を取ってもらい歩いた夜の道・・・。
 人の歴史は、より「強さ」を求めて<核兵器>を生み出し、より便利さ「速さ」を求めて<原発>生み出した。20世紀は、その二つを、ある意味で<信仰>しているのだろう。速さと強さの、価値観から訣別せねば!
 「元気ですか?」そう尋ねたとき、ヴァーリャは決まって「大丈夫」としか、答 えない。「元気なんでしょう!何故そう言ってくれないの?」私は、その言葉を飲 みこみました。元気であるはずがないのに、ウオッカを飲んで歌を唄っているからって・・。家族の一員にしてもらっているのに、私はまだわかっていないのか。
 「事故のときの話しを!」そう私がテープをまわしながら聞いたとき、いつも笑顔を絶やさないあのアンナが、大きく肩を震わせて泣き出した。私はまだわかっていないのか。
 <救援・助ける>のではなく、ともに<生きよう>って思いから、そして市民と して、お互い人間として、<心をつないでいきたい!>そんな願いを目的に会の名前をつけたのに・・。私はまだわかっていないのか。
 「未来・・」そうだった! あの一言が、心の根っ子に響きました。  「速さ」と「強さ」からの訣別を!!   ベラルーシは、もうすぐ忙しくなるでしょう! さあ秋の収穫を。  素晴らしい番組の企画と放映、そのご努力に心から敬意を表します。      日本ベラルーシ市民友好協会 永江雅俊


やっと見ました。 投稿者:hoppy  投稿日:2000年 9月16日(土)02時37分58秒

  一回目の放送の時にビデオに撮っていたんですが、忙しくて、やっと今日見ました。
文章にして感想を書くのは苦手で、あまり書けませんが。 ベラルーシも戦争の場だったんだなあ、ということを、改めて思いました。 いつもTさんの平和なベラルーシのお話を聞いていますので。
また、日本の過去の戦争についても、 戦争の歴史を知るために、本を読むとか、映画を見るとかいう経験が、
小中学校以来なかったので、 番組で広島の写真などを見て、改めて日本にも戦争があったんだなあ、と思いました。 いろいろ考えたり、すごいなあと思ったり、というのは、なかったです。
「ああ、そうなのか、戦争があったのか」って、思いました。それだけです。
ただ私は、この世から、戦争はなくなっていくんじゃないかなあって、ちょっと思いました。 その代わり、別の社会問題(原発事故も含む)は、出てくるでしょうが。


これでは、ダメ? 投稿者:hoppy  投稿日:2000年 9月16日(土)21時25分45秒

>いろいろ考えたり、すごいなあと思ったり、というのは、なかったです。
>「ああ、そうなのか、戦争があったのか」って、思いました。それだけです。

これじゃあ、ダメなんでしょうかねえ。
でも、「歴史は繰り返す」とは言っても、全く同じ事は繰り返さないと思うんですよ。
そういう話を、大学の一般教養の何かの授業で聞いたことがあったような気がします。
戦争が、戦争という形で起こることは、なくなってくると思います 。


ヒトは、何を? 投稿者:永江雅俊  投稿日:2000年 9月17日(日)02時41分09秒

 みんなが、同じように思ったり、同じように考えたりする必要 はないと思う。
それは、かえって<怖いこと>だと思う。 
「ダメ」とか「イイ」とかは、誰も決められないし、決めては ならないことだと思う。
ただ言えることは、現代は<歪み>が加速度的に速まっていること。
そして、<感性>が去勢されつつあること、
自分自身も気づかぬうちに<侵されて>いること・・。
 それは、ちょうど音も臭いもなく痛みも感じない<放射能>の
ごとく忍び寄ってくる。そう思います。
 必要以上に、悲観視する必要もないが、かと言って楽観視する
こともどんなものか・・?
 両親を亡くしたユリアは、「・・地球は、みんなの家です。どう か・・・もう・・」と 、
12才のとき大きな瞳に涙をいっぱい浮かべて私たちの前でメッセージを読み上げた。
 地球が誕生してからを<一日>とするなら、ヒトは<一分前>に 誕生したばかり。
ヒトは、この地球に何をしているのだろう?  私の<想い>です。
日本ベラルーシ市民友好協会 永江雅俊 拝


ありがとうございます。 投稿者:hoppy  投稿日: 2000年9月19日(火)23時29分16秒

永江さん、お返事ありがとうございます。
思うことなどを、きちんと、お返事書きたいのですが、うまく言葉が定まりません。
何が良くて、何がいけないのか、 どうして、誰もが嫌だと思うことなのに、
それを人がするのか、 わからないことが、多いです。
テレビで、「人を殺すことがあるかもしれない自分」という言葉も出てきたと思いますが。。。
ちょっと、意見がまとまりません。ごめんなさい。


はじめまして 投稿者:せろり  投稿日:2000年 9月20日(水)09時40分51秒

こんなおもしろいお部屋があったんですね。はじめまして。
あの番組からもうだいぶ日がたってしまいましたが、(記憶も薄れつつあったりして…)
2回目の方だったと思うけど、あれは「チェルノブイリの祈り」の
孤独な人間の声のリュドミーラ・イグナチェンコさんの息子さんですね?
「ママ、ぼくの手だけはにぎらないでね、ぼくママからはなれたりしないから」と
本のなかで、けなげにも母親に声をかけていた男の子です。
あの子が、こんなに大きくなったのか、と感慨深いものがありました。
と同時に「どこにも逃げばがない」とアレクシエービッチに語り、
彼なりに自分の人生を重く受けとめている姿に、胸がつまりました。


秋になりました。 投稿者:永江雅俊  投稿日: 2000年9月26日(火)01時12分52秒

 hoppyさん、丁寧にありがとうございます。スパシーバ! そして、ジャークイ!
 あなたの8行のメールの、<行間>から漏れてくる何かに 心打たれました。
 正式な独語の話し方は<吃音>である。という事を、以前 何かの本で読み感銘を受けました。
 「うまく言葉が定まりません」そんな真摯な感性に、爽や かな<心>をいただきました。
すらすら書いたり、すらすら 話したり、そつなく何でもやりこなす事を要求している現代
のなかで、まさに<吃音>的生き方と価値観の変革(効率を求めないモノサシ)とが
大切なのではと思いました。
 私は、ベラルーシとインドから、いつも眺めています。
 死体の浮いているガンジスで沐浴している時、チェルノブ イリ汚染地区で
残留放射能に囲まれて子供たちと暮らす時、 上手く言えないけど「やさしさ」を感じる。
 自分が、ふだんよりも<少しやさしく>なれたような、そんな気がするので・・・。
 北海道は、もう秋です。緯度ではさらに北のベラルーシ。
昨日の電話では、もう秋が訪れているとの事です。
 あの番組・・。すばらしい<吃音的対談>だったのかも。
      日本ベラルーシ市民友好協会 永江雅俊


ありがとうございます 投稿者:鎌倉英也  投稿日:2000年10月 2日(月)16時29分48秒

 NHKスペシャルの方の編集作業で、なかなか時間がとれず、本日、ETV2000「破滅の20世紀」放送後、久しぶりに皆様方のご感想を拝読しました。本当にありがとうございました。  徐さんとAlexievichさんの対話。確かにご指摘のとおり、かみあわないとの印象がおありだったかもしれません。これは、番組の時間内に編集する過程で、言葉の内容以外の細かなやりとりなどがどうしても残らないためにそうなることも多いでしょうし、(つまり、人間と人間の会話部分がどうしても捨象されてしまうことがあります)それ以外にも、言葉の問題もありましょう。(言葉というのは、この場合、単に伝達手段としての言葉ではなく、文化や歴史そのものの堆積された個有のもの) いづれにしても、お二人とも、「強い力」や「大きな権力」(時にすざまじい暴力主体)の中で、「マイノリティー」の中におられる方々であり、その中における「主体性」や「アイデンティティー」の模索に苦しまされておられるという基盤が、(我々には見ようと思ってもなかなか見れない根っこつが)あります。その意味では、「かみあ」わないかもしれないけれど、僕は(個人的には)それで番組を断念するよりも、少し無理をしてでも企画を通し、話を聞いてみたかったお二人に話が聞けてよかったと考えています。
 さて、現在、編集中のNHKスペシャル「ロシア・小さき人々の記録」は、Alexievichさんと私どもが、1999年11月〜今年の5月まで、のべロケ日数2ヶ月ほどお付き合いした取材の足跡をまとめたものです。シベリア・ミンスク・チェルノブイリ・サンクトペテルブルグなどが、その取材地になります。この番組の放送予定も決まりましたので、ご連絡いたします。

2000年11月4日(土) 21:00〜22:15(75分) NHK総合チャンネル

    NHKスペシャル「愛と哀しみの大地〜ロシア・小さき人々の記録〜」
    放映時は「ロシア・小さき人々の記録」というタイトルになりました(by saba) 

この番組は、ハイビジョンで作られており、ハイビジョン受像機をお持ちの方でしたら、35ミリ映画レベルの高画質の映像でご覧いただけます。そのハイビジョン放送予定は、 2000年11月5日 18:45〜20:00 です。  こちらの番組も、ETV2000「破滅の20世紀」の姉妹版の番組ですので、ぜひ、ご高覧いただき、またご意見ご叱正をお寄せください。お待ちしております。
 皆様、本当にありがとうございました。まずは、お礼まで。
NHKディレクター 鎌倉英也


遅くなりましたが、9月放映分の番組の感想 投稿者:ベラルーシのT  投稿日:2000年10月21日(土)22時06分41秒

 すっかり、あの対談番組の感想を投稿するのが遅れてしまいました。すみません。1回見たときは頭の中が「・・・。」となってしまい、もう1回見て、やっと感想がまとまったようなので、ちょっと書いてみます。
 この番組を見ていて、一番考えてしまったのは、対談の中でソ・キョンシクさんが語っていた「人類の健忘症」という言葉です。
 人類は知っているのにそれを忘れて、同じ間違いを繰り返す、ということでした。
 アレクシエービッチさんとソさんが、小さき人々の証言の中に真実が隠されていることを見抜き、またそれが忘れ去られてしないために、そして、人類が同じ間違いを繰り返さないために、ペンの力で持って、訴え続けていることがよく分かりました。
 番組で紹介されていたオットー・ディックスは画家として、ボリス・ミハイロフは写真家として、自分たちのできる方法で、それを表現しています。
 けれど、そういうことができない一般人もたくさんいるわけです。したくても、どうすればいいのか分からない人もいるでしょう。
 アレクシエービッチさんは戦争のニュースを見た後、平気でお茶を飲んだり、ご飯を食べたり、戦争に対して何も反対の行動を起こさない人は、それだけで、戦争を容認している、加担者だと、言っていましたが、私はこの意見はそう言い切れないと思います。だったら、世界中にこれだけたくさんの戦争反対の会があるのに、戦争はなくならないのでしょうか?  またアレクシエービッチさんは、ソ連は戦争をしているか、戦争の準備をしているかの時代しか生きていなかったので、急に普通の生活をしろ、と言われてもできない文化の国になっている、と言っていました。監獄にずっといた人が、解放されても、すぐに普通の暮らしの社会に戻れないとも、言っていましたが、これがさっきの「どうして戦争はなくならないのか?」の答えなのでしょうか?  だったら、彼女たちが本や写真を通じて訴えていることは、本当に微かな力しか持っていないのではないでしょうか?
 本を書いても、戦争のニュースを見た後、お茶を飲んでも、違いはないように感じました。国が戦争に駆り立てられるのは、文化のせいなのだと、いうのがアレクシエービッチさんの意見なのですから。何だか矛盾しているような気がしました。
 また、普通の生活にすぐ戻れない、普通の国に急になれない、と言っていましたが、その「普通」とは一体、どんな社会で、どんな国なのかも、この番組を見ていても分からなかった、というのが正直な感想です。大体、そのような国や生活が本当に存在するのでしょうか?
 人類の健忘症と闘う、というテーマについてですが、私から言わせれば、人類は健忘症にはかかっていないと思います。
 単に人間は他人の考えていることや、経験した痛みや苦しみが、分からないだけだと思います。
 戦争がよくないことや、人が人を殺すのが悪いことは、分かっていても、本当の痛みは経験した人でないと分からないのではないでしょうか?  自分以外の人が何を考えているのか理解できる、というのは自分も同じ経験をしないと分かりません。
 戦争経験者が戦争はよくない、といくら言っても、戦争を経験したことのない後の世代の人たちには、想像はできても、したこともない経験を得ることはできません。
 例えば私の主人は足に障害がありますが、障害を持っていない私には彼の考えていることは分かりません。完全な理解は私も同じ障害を持たない限り、分からないでしょう。
 また、主人は自分と同じ足に障害を持っている人のことは、よく理解できると思うのですが、手に障害がある人のことは、分からないと思います。
 つまり、プリーモ・レーヴィが生前、訴え続けていたことは同じ経験をした人には理解してもらえたが、経験の無い者には理解してもらえず、また、決して理解してもらえる日が来るとは思えなくなったから、絶望してしまったのではないでしょうか?  番組中「人類は知っているのに同じ間違いを繰り返す。」とソさんが言っていましたが、大勢いる人間一人一人を「人類」という一つの個体として表現してしまっているのが、適切ではないように思います。  「知っている人」=「経験者」が訴えても訴えても、経験のない者はそれを完全に理解することができません。やがて「知っている人」は亡くなります。
 「知っている人」は永久に忘れないでしょう。自分が経験したことを。  また「知らない人」は知ってもいないことをどうやって忘れるのですか?
 人類の悲劇、というか弱点(またあるいは長所)は、過去の間違いを忘れることではなく、他人が感じていることを、そっくりそのまま感じる取ることができる才能に恵まれていない、ということだと思いました。
  だから、人類は過去の歴史の過ちを繰り返してしまうのだと、私は思います。


番組感想の追加 投稿者:ベラルーシのT  投稿日:2000年10月21日(土)22時23分24秒

 ちょっと追加したいことだけ簡単に書きます。

(1)番組のはじめにアレクシエービッチさんの著作が出版禁止になるなど、弾圧を受けている、と紹介されていましたが、彼女の著作はモスクワで出版されており、ベラルーシに輸入されているので、ベラルーシに住んでいる人でも、読んでいる人はちゃんと読んでいます。  ミンスク市立の児童図書館にも「チェルノブイリの祈り」が置いてあります。  このことはべラルーシの部屋でも、書きましたが、「出版禁止」=「読むことも禁止」ではないことをお知らせしたかったので、こちらの掲示板にも投稿しておきます。

(2)番組中に出ていた欠落のアイデンティティーについて。  ベラルーシ人とベラルーシ語の問題、というのは、べラ部屋の「社会」のページでも少し紹介しています。  しかし、ソさんに言わせると「ベラルーシ語を知らないことがベラルーシ人であることのアイデンティティー」になってしまうのですね。これはすごい発想だと思いました。これを聞いて救われるベラルーシ人が何人いることか・・・。

(3)戦争中、孤児院の子どもがナチス軍によって、生体実験をされていた話が、番組に出ていましたが、これについてべラ部屋の「観光」のページの中の、第二次世界大戦博物館の紹介のページで、少し紹介しています。
 が、私が文責でありながら、このページの文章に若干、間違いがあることが分かりました。すみません。
近いうちに訂正します。  どうして間違いに気が付いたか、というと、この子ども専用収容所の生き残りの方に出会え、お話を伺うことができたからなのです。もうすぐ、その方にその収容所跡へ連れていってもらえる予定なので、詳しい話や画像など、ベラルーシにおける強制収容所のレポートをべラ部屋でご紹介します。お楽しみに。


ベラルーシのTさん ご感想ありがとうございます 投稿者:鎌倉英也  投稿日:2000年10月27日(金)03時08分35秒

 ベラルーシのT様  番組のご感想(番組の感想&追加)のご投稿、ありがとうございました。
 ここでは、プリーモ・レーヴィの自殺の件について象徴的ですので、述べることにしましょう。徐さんが警鐘として鳴らしたのは、同じ経験をした人がまったくいない事柄に対する人間の「認識」に対する絶望なのではないかと思います。同じ経験をした人はこの世にただのひとりもおらず、その意味では私たちはいつも絶対孤独の中に置かれています。彼が自殺したときは、ドイツのユダヤ人虐殺が、歴史上人類が大なれ小なれ、経験してきたこと(つまり、日本軍による731部隊や南京虐殺なども含みます)であり、特殊なことではない人間はそういうことを犯すのだ、といういわゆるドイツ歴史修正主義派が台頭してきた時期でした。つまりアウシュビッツも「相対化」の中に放り込まれる形となったわけです。そうしたとき再び、世界では戦争が繰り返される。民族浄化や住民殺戮が現におこる。強制収容所問題も継続している。「相対化」の前では、そこで体験した個人の刻み込まれた「歴史」は、特殊なものではなく、普遍化されてしまう。これが徐さん流の言葉では「健忘症」という言葉に出たのではないでしょうか?おそらく、アレクシエービッチが、戦争の報道を見た後で何事もなく生活している者たちも戦争に加担している、ということを言ったのは、「自覚的問題」を訴えているのだと思います。戦争を経験したことがないから戦争の痛みや苦しみがわからない、というのでは、すべては無意味になってしまう。例えば離婚した人は離婚した人の苦しみや悲しみを知るかといえば、そうでもありますまい。現象として起こっていることが例えば、肉親の死、戦争、貧困、飢餓という言葉で集約されるような境遇の共通性の中にくくれるとしても、その苦しみや悲しみはまったく違います。Tさんがご主人の足の障害の問題を出されておられますので、それに則して言うならば、同じ足であっても、個人によって全く違う痛みをもっている可能性がある。僕の父もそうでした。むしろ、手とか他の体の障害を抱えておられる方の中に、心情的に接近できる可能性をもった人もおられるはずです。つまり、いいたいのは、一見、同じようなものとして回収できるような範囲の中でもそれぞれ全く個別の感情と思想が存在することです。戦争反対という声を立てることをのみ奨励しているのではなく、「無自覚」的に、自分とちがう範疇に、つまり自分とは共有できない経験として「認識」の範囲外に置くこと、テレビ画像の向こう側を意識として切り離してしまうことの恐ろしさを彼女はいいたかったのではないでしょうか。確かにTさんがおっしゃるように、完全に相手の心底を理解することはできないでしょう。それは、繰り返し、僕も申し上げてきているように、人には同じ苦しみなどない、からです。同じ境遇にあるから、と錯覚するほうが恐いのです。だからこそ、彼女も、同じ戦場や同じ事故に遭遇した共通基盤を持っていると思われる人々が、すべてちがう人生の経験と記憶を刻んでいることを、証言集で明らかにしているのだと思います。それを突破できるのは、やはり、僕は、「理解できない」と厳密に限界を自ら設けて突き放すことではなく、「理解できないことがおこる」という「認識」をしっかりもって、それを見つめ続けることだと思います。共感とか同情とかいうものでなく「認識」の問題です。共感や同情は人間を動かすモチベーションになることが多いと思われますが持久力の点で不安が残ります。オットー・ディックスもボリス・ミハイロフもその点を突きつけているのでないかと思います。
 えらそうに長々と書いて申し訳ありません。僕自身、この問題は、Tさんの書かれていることに非常にうなづく点も多く、現実を前にしたときに揺れ動きが激しい問題です。しかし、日本が現在相当に危険な国家になりつつあることは明らかで、思想的統制・思想的国家全体主義が合法化されつつある状況の中で引き返すことなく躊躇することなく考えてゆくべき問題だと感じています。
 Tさんの真摯で、よく考えられたご感想をきっかけに、僕も再度、非常にいろいろなことを考えさせられました。本当にありがとうございます。誤解のないように申し添えますと、これはTさんへの僕の反論ではありません。ましてや、番組制作者としての抗弁でもありません。このような投稿をきっかけに、本当に「運動論」ではなく、自分たちの毎日の事細かな生活をする中で、考えてゆけることを幸せに思います。Tさんのような方のご意見が寄せられること、それこそが、番組を作ったものとして、換えがたい財産と感じています。Tさんにまたお会いできることを楽しみに。


雑誌読みました。 投稿者:さば(管理人)  投稿日:2000年11月13日(月)00時40分29秒

「世界」12月号、読みました。 ほぼ番組通りの内容だと思います。対話を聴くのと、文字を目で追うのと、 結局同じ内容なのですが、受け取る衝撃は私にとって違いました。 対談では言葉が耳にはいって頭の中に留まって意味を成す間に次の言葉が やってくるので、どうしても内容が右から左へ流されがちです (それは、たんに私の理解力がとろいだけ) 文字で読むと、耳からでは流してしまった内容が頭の中へはっきりと入ってくる 感覚で、以前は気が付かなかったことに気が付いた、という感じがしました。 入手するには、大手書店か取り寄せになると思いますが、興味を持たれた方は お読み下さい 。